1943年12月19日
十二月十九日
申命記 五章二十九節、六章二十~二十五節
父なる神が言われます。
「わたしは、シナイ山での荘厳な顕現の中で、わたしの祝福を受ける資格を得るためにすべての人が守るべき規則を、僕に伝えました。
そして、古代の人々が十戒をより安全かつ容易に実践するために十戒に付け加えた詳細な規定の多くは、数世紀の経過とキリスト教の到来とともに消えていったとしても、十戒はそのまま、変わることなく残っています。それは最後の日まで変わることはなく、もし地球がこれからも何千年もの命を与えられるとしても、この十戒は常に同じであり、常に有効、常に公正、常に遵守されるべきものであり続けるでしょう。
わたしの息子は、その言葉を変えていません。なぜなら、神の言葉は、誰も変えることができないからです。わたしの言葉は、わたしの不変の言葉への敬意をあなた方に教えています。覚えておきなさい。イエズスは十戒という不可侵の律法を確かにしました。そして、もはや新しい時代にそぐわなくなった律法の補完的な部分を、愛の教えに置き換えました。
愛と慈悲の王がこの世に栄えた瞬間に、懲罰の時代は終わりました。厳しさから許しへのこの変化をあなた方に確信させるために、わたしの息子は三年間を費やして、あなた方に愛と許しを説きました。そして、全世界がその慈悲の中心に目を向けるよう、山の険しい斜面に彼の犠牲を血の警告として建てさせさました。そこから神の血の最後の一滴とともに、愛と許しの最後の言葉が降り注ぎました。
世界の主は、最後の瞬間まで、言葉だけでなく行いによって神の教えの完成を何度も示されました。完成とは、主が古代の十戒からモーセの律法の細かな人間的規定を取り除き、自身の愛の掟に置き換えたことです。しかし、十戒は残ります。これからも残ります。世界はもはや十戒を知らず、十戒に従って生きていないので滅びます。
家族の権威を授けられ、子どもたちに第一の最も重要なこと、すなわち、わたしの掟を教える人々はどこにますか? わたしへの感謝と敬虔な愛を子どもたちに育む人々はどこにいますか? 神の驚くべき御業や人間に対する摂理について、心を開きつつある子どもたちに語りかける人々はどこにいますか?
ここで言う権威とは、ほかでもありません。第一の権威、すなわち親の権威です。
親は、子どもたちの未来、ひいては国家の未来に責任があります。もしあなた方を統治する権力者たちが、キリスト教世界全体に見られるような、神と神の事柄に対する敬意と教育にゆるぎない姿勢を持つ無数の家庭の親たちに向き合うならば、彼らはある種の行き過ぎた行為を慎むでしょう。その行き過ぎた行為は、若い世代を冒涜するだけでなく、地球にますます恐ろしい日々をもたらすような行為です。堕落した無神論的な若者からは、犯罪者しか生まれません。個人の非行であれ、社会的な非行であれ、犯罪、窃盗、虐待、裏切り、反乱、そして地球を前兆的な地獄に変え、人々を互いに残酷な悪魔に変えてしまうあらゆる忌まわしい行為へと駆り立てるのは、常に非行です。
あなた方はもっと良い時代を夢見ています。しかし──何千年も前から語り継がれてきた、そして今もなお新鮮な言葉を繰り返して言いましょう──『誰があなた方に、わたしを畏れ、わたしの命令を守る霊を与え、あなた方と子孫が永遠に幸せでいられるようにしてくれるでしょうか?』 わたしの命令を知らなくなったあなた方に、どうしてそれができるでしょうか? あなた方の精神に生きる力を与えるものは何ですか? もしそれが、神の言葉を聞かずに食べ物がなく、あなた方の罪によって悪臭を放つ空気を吸って、死なざるを得なかったとしたら、どうしてあなた方は、わたしが持ってほしい霊を持つことができるでしょう?
あなたがたは閉じた輪の中にいます。あなた方を窒息させる恐怖の輪です。それを破ることができるのは、十字架と福音だけです。それらは、神の光と空気、食べ物、そして命のすべてへの扉を開き、あなた方がわたしのもとへ帰る道を開きます。
わたしの極度の威厳は、あなた方を恐れさせるかもしれません。なぜなら、あなた方は罪を犯した後のアダムのようだからです。魂は汚れており、神の目を恐れています。しかし、キリストは恐れさせません。誕生から死に至るまで、その名は優しさです。御言葉と十字架を通して、わたしのもとに立ち返りなさい。それは、あなた方を教え導き、再び聖別するでしょう。それは、神の愛の傑作です。それ以外に救いの道はありません。それを否定するなら、残るのはただ一つ、『わたしの正義』だけです。
そこで、堕落したあなた方にとって、わたしの正義とは、『罰』にほかなりません。このことを心に留め、備えなさい」。