手記 Quaderni

1943年11月26日

 十一月二十六日

 イエズスが言われます。

「イザヤ書の解説をいったん休みましょう。わたしの友よ、あなたはとても疲れています。とても苦しんでいて、慰めが必要ですから、余分な重荷はいりません。それに、わたしの言葉は、今扱っている主題にそぐわないものでもありません。むしろ、わたしの来臨、使命、栄光を告げる預言的な叙事詩の『ソロ』のようなものです。

 こうして、あなたを導いている神父259に贈り物をしましょう。彼はマリアの話を聞きたがっています。まるで遠く離れた母親のことを知りたがる子どものように、彼女のことを知って、さらに愛したいと願っています。そして、本当のところ、ロムアルド神父はわたしの母にとって本当に『息子』であり、わたしの母は、彼にとって本当に『母』なのです。

 彼と同じ服を着ている仲間が皆、彼と同じわけではありません。心が違います。そして、心はすべてです。彼の心には、悪意も、傲慢さも、厳しさも、感覚や精神の人間性もありません。彼は中流階級の服を脱ぎ捨てて聖なるローブを着たように、人間性を脱ぎ捨てて、完全に神の僕、キリストの担い手になりました。神とわたしと彼の母のために、光と声になりました。

彼の心は、大人の心を統べる子どもの心です。わたしに愛され、天国を征服するために子どものようになることが必要であるならば、わたしの母に愛されるためにも同じことが必要です。母は、子どものような純粋さ、謙遜さ、単純さ、信仰、いつくしみにおいて、自身を反映する心を見ると、その心をわたしが眠ったその御心に押し付けるのです。

 一年間に、日々の中の宝石のようなマリアの祝日がない月はありません。けれども、十二月は特に聖母マリアの月です。最も高い二つの栄光、すなわち無原罪懐胎と、神聖な処女なる母について、深く考える月です。この母性について、いくつかの洞察を示しましょう。

 神が御子をエルサレムに誕生させることを阻むものは何もありませんでした。パレスチナの首都であり、信仰と権力の中心地であるエルサレムは、ユダヤ人の王の誕生に最もふさわしい町だと、人間の心に思われるかもしれません。しかし、神の見方は人間の見方とは異なります。

 エルサレムはもはや聖地ではありませんでした。聖地とは名ばかりで、神殿から宮殿、兵士から市民にいたるまで、あらゆる階層に腐敗が蔓延していました。エルサレムは金持ちアブラハムが言ったように、望むものをすでにすべて手に入れていました。『思い出しなさい、おまえは善いものを授かっていた』。『神を持つという善』を拒絶したので、唯一必要なものを除いてすべてを持っていました。

 高慢、傲慢、貪欲、冷酷さ、人間的知恵、富、贅沢、そして情欲。エルサレムには、すべてがあり、こうした人間の食べ物で腹を満たしていたので、哀れなラザロは魂を飢えさせられました。傷だらけのラザロは神の食べ物で満たされることを切望しましたが、神の蜜の代わりに、ファリサイ人の慣習という重い石しか見つけられませんでした。

 神は、神以外のすべてのものが存在する場所から退きます、そして、すべてを主の王座の基礎とし、『すべてのもの』の中に神を置こうとする人がいない場所から退きます。神には、地球上のすべてのものが従うべきです。

 ところが、あなた方は地上の事柄を思考の頂点に置き、神の上に置きます。エルサレムで起きたことがあなた方に起きないように気を付けなさい。それはすでに、あなた方に起きています。なぜなら、あなた方が求めなくなった神は、あなた方を不安定で邪悪な『すべて』の中に置き去り、呪われた、偽りの、悪魔的な富を数えるしかない状態に置いて撤退しているからです。宝の中で価値を持つのは、ただ一枚のコインのみです。たった一枚。そして、あなた方はそれを持っていません。

 エルサレムを永遠に偉大な町にするはずだった賜物は、こうして取り去られました。キリストの生誕も死も、その壁の中で行われることはなく、キリスト糾弾の罪だけがありました。それに対しては、石さえも反抗し、わたしの死とともに崩れ落ちました。不必要に過度に崇拝された権力者たちは、ナザレのイエズスを殺されるべき小羊のように引き渡し、エルサレムを破壊しましたが、そのとき、エルサレムは神の意志に従って崩壊しました。

 子らよ、規範を無視すると、こういうことが起きます。犯罪が生まれ、その結果として破滅が訪れます。神を否定し、人間の情熱を神々に置き換えるという誤りが、神に見捨てられ、神があなた方と共にいるという祝福を奪う結果をもたらすのです。人間に対する偶像崇拝は、偶像化された人を殺人者にまで追い込み、刑罰の執行者へと変貌させます。なぜなら、召使や奴隷に鞭を振るうことが許されるからです。キリストの掟が生きていないところでは、それは合法です。偶像崇拝者と偶像化された人たちは、その掟を否定しました。それで、彼らは奴隷たちに牢獄の糧である破壊と鎖を与えます。

 熟した果実が枝から落ちそうになるように、人の子が光としてこの世にやって来ようとしていたとき、最も強力な皇帝たちをも街道のわらのような存在にしてしまう彼の意志は、皇帝に勅令を公布させました。

 名前どおりの聖なる都ではなく、邪悪な意志によって聖性を失った都市。けれども、わたしの僕ダビデの信仰がまだ漂っている起源からして、その外縁に愛の奇跡を迎える都市でした。

 ユダヤ人に軽蔑されていたナザレで、祝福された女性はわたしを妊娠しました。高慢なユダヤ人から没落していると推測されていたベツレヘムでは、マリアは神と彼女の御子に処女のキスをすることになりました。何世紀もの間、御子を迎えるために準備されていた洞窟の中に、御子は星の輝きとともに現れました。

 神は謙虚な人のところへ来ます。だからこそ、世の目には概して貧しい存在とみなされる人々が、恵みの使者、御出現を見分ける者、神のみ旨を伝える者、御言葉を広める者として選ばれるのです。神は霊によって彼らに宿り、人間の限界を超えて神の領域を見通す超自然的なものに彼らの目と耳を開きます。

 わたしは、好きなときに、したいようにできます。わたしは、ゴリアテを倒したダビデの血統であり、何よりも力、強さ、完全な意志ですから、無神論や合理主義の巨人を意志の一触れで倒すことができます。愛情込めて魂をささげてくれる人に親指で軽く触れるだけで、霊的感覚を超自然的な光景や音に開くことができます。花嫁が花婿を知るように『神を知る』ことができるようにします。

 娘よ、また明日来ます。ナザレの家を出てベツレヘムへ向かうマリアの後を追いましょう」。

注

  1. ロムアルド・Ⅿ・ミリオリーニ神父。

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