手記 Quaderni

1943年11月21日

 十一月二十一日

  イザヤ書三十八章五、七、十五、十六、十七、十八、十九節

 イエズスが言われます。

「あなた方人間は、死の病から健康を取り戻したとき、何か考えるとしても、体の回復をわたしに感謝するだけです。わたしがその試練を与えたのは、あなた方を待っている終わりの先には始まりがあるということを、あなた方に考えさせるためだったということを、考えようともしません。夕方に太陽が沈むのは、結局は新しい夜明けというサイクルの始まりを示すのと同じですが。しかし、あなた方の来世の夜明けは、数時間続く一日の始まりではありません。それは永遠の一日の始まりなのです。

 病気があなた方に考えさせようとしているのはこれであり、回復した健康を向けるべき目標です。死なない者たちに平和の日を与える備えをさせることです。

 もし、あなた方がこのように考えられるなら、地獄はどれほど多くの獲物を失うことでしょう! しかし、あなた方はたいてい、わたしがあなた方に与える健康と、この目的のためにあなた方に加える生存年数を誤用しています。病気になると、我慢できなくなり、落胆し、祈ることをやめます。『祈っても無駄だ。神がわたしに病気を与えたのに、なぜ、取り去ってほしいと願わなければならないのか』と。病気が治ると、健康を取り戻してくださった方のことを忘れます。あなた方は不条理な恩知らずで、病気になったのは神のせいだと責め、病気を取り除いてもらっても感謝しません。

 神が悪を与えると考えるなら、神は善を与えることもできるはずだと、思いませんか? 子らよ、その逆です。悪は、何であれ、九割九分があなた方から発します。そして善は、ただ一つの源である神から来ます。あなた方を気遣う者たちを鼓舞し、啓発する神。薬が効く時間を与えるためにあなたの日数を伸ばし、身体が反応する機会を与えるためにあなたの抵抗力を高める神、御自身のはかり知れない理由により、あらゆる希望に反し、あらゆる助けを超えて、あなたを即座に治癒して立ち上がらせることができる神。

 しかし、治されたことを喜ぶ前に、病気になる前の過ちを償い、死なない命にふさわしい人生を送るために努力する機会を神が与えてくださったことを喜ぶべきです。わたしはあなた方の魂を破滅から解放するために働き、わたしの愛で、あなた方の罪を消し去り、常にあなた方に希望を抱きます。それなら、あなた方は、どうしますか? 受けた愛に愛を返し、『生きている』者になりなさい。

 『生きている』とは、この世に属することではありません。主の中にいることです。恵みを受け、天国に行く権利を持つということです。死んだ魂と共に呼吸し、食べ、眠る者は生きていません。腐った体は、腐ったイチジクの実のように、今にも枝から穴へと落ちそうです。穴の底は地獄です。たとえ肉体が死にかけていても、『命』を持つ者は生きています。そして、まさにこの世の生命力が失われるとき、『真の命』がその人のうちに近づき、成長します。息を引き取るとき、すでに主への永遠の賛歌を歌い、瞳に闇が降り注ぐとき、霊の目で父の御顔をより鮮明に見る者は生きています。

 病気が癒されたとき、主に救われたと感じ、自分のすべての活動を主にささげる人は生きています。

 真実を知る者は生きています。あらゆる人間的喜びや富よりもこの喜びと富、つまり真実を望む人は生きています。そして、彼は生涯を通じてそれを所有することに専念します。なぜなら、それを知ることによって、それを征服したいという聖なる渇望を与えられたからです」。

  同日(十一月二十一日)の後刻に

 イエズスが言われます。

「マリア、ここからは、あなたのために話します。あなたのような、愛する魂のために。

 ルカは、シモンの家の晩餐で、悔い改めた愛ある女性がわたしに涙と髪と香料を用いてくれたことを語っています。

 シモンは憤慨しました。彼女がわたしに触れていたからです。けれども、恥ずべきことがある人は、目にするものすべてに自分の暗い内面を投影して、憤慨しがちです。純粋な人は、憤慨するようなものは何も見ませんでした。

 水でなく涙です。心からのしずく、不純な菌に汚染されていず、愛と悔い改めによって濾過された体液、真理を理解した精神の徴であるため、神によって貴重であると判断され、神にふさわしいとされたものです。亜麻布ではなく、髪の毛。生きた絹であり、女性が誘惑して崇拝する髪は、恵みによって再生され、謙虚になって、救世主の足拭いとなります。香料は、サタンが女性に教えた道具の一つですが、神のもとに戻った女性は、それを主の香油にするために壊します。

 わたしは見て、黙っていました。でも、温かい悔悟の涙の一滴として、また、汚れを知らない肉体とすでに汚れた肉体を接触させることなく、両者の間に神に軽蔑されないベールとして置かれた髪の毛。その愛撫の一つとして、また、香料を撒き散らす者の愛のように香り立つナルド。その一滴として、見過ごされたものはありません。どれもが愛の告白であり、過ちの告白だったので、赦しと祝福が与えられました。

 自発的に勇敢で謙虚な告白をした女性に対し、尊大なファリサイ人は驚きを示し、憤慨して不誠実な言葉を投げかけて彼女を辱めました。それは、大いに非難するべき言葉でしたが、わたしは、彼女の過去のすべてに対して完全な赦免を与えました。

 わたしは彼女の涙で洗われました。彼女の闇は愛の光によって打ち砕かれ、冷たさも克服されました。マリアはその寛大さと信頼のゆえに愛されていました。彼女の心は悪の道具でしたが、彼女は自らの心の中に善への道を見出しました。そして、彼女の心は命と主の御心に居場所を得るための先生になりました。

 わたしは彼女が大いに愛したので、大いに愛しました。彼女は、わたしがすべてを赦したので、わたしを大いに愛しました。すべてです、マリア。心からわたしを愛してくれる人に対して、わたしはすべてを赦します」。