1943年11月20日
十一月二十日
イザヤ書二十二章十一、十四、十八節
イエズスが言われます。
「あなた方はあまりにも頻繁に、あなた方の天恵である神に『目を向ける』ことを怠り、あれこれと、しばしば無用な飾りを付けて、『これはわたしたちが作った』と自分に言い聞かせます。
いいえ。あなた方はそれを作ったのではなく、むしろ破壊者です。なぜなら、あなた方は自分の手と破壊的な心で作品そのものを破壊しない時でも、作品から生まれた成果を無力化するからです。
神はあなた方に多くのものを与えてくださいます。あなた方の肉と血、そして心と霊にとって有益で必要なものすべてを、神は与えてくださいます。このすべて、特に心と霊にかかわるすべてのものから、あなた方は『湖』を造り出します。そう、湖です! しかし、それは他の多くのものと接触し、あらゆる侵略にさらされて、神の澄んだ水を淀ませる濁った湖なのです。
こうしてあなた方は、計り知れないほどに増やしながらも神に向かって高められていない知識を、あなた方自身だけでなく宗教にとっても危険なものにしました。あなた方は宗教を多くの役に立たないもので飾り立て、人間のレンズで分析し、神を参照せずに説明しようとすることで冒涜し、それを人生の形式ではなく公式にして退化させてきました。
あなた方にいつも同じ非難をしなければなりません。あなた方は自分を神と同等、あるいは神よりも優れていると信じました。そして、神の子としてではなく、ただの理性的な動物、地球上の超理性的な動物、ただし、人間的に理性的な動物としての行動に陥ったのです。『明日のことを考えて行動しよう』と言えるほど、理性的で自分を尊重しているなら、立派です。たいていの場合、あなた方は今日のことだけを考え、今日を大切な肉体の浮かれ騒ぎの日にすることを考えます。
たとえ罰の苦しみの中にあっても、この不健康な幸福感から抜け出すことはできません。それどころか、獣のように飢えと感覚を満たすことだけを目的として楽しんで生きたいと望みます。一つの快楽から次の快楽へと移る合間に、もはや信じていない神を嘲笑し、苦しい時にだけ、神を呪ったり懇願したりします。なぜですか? 何を期待するのですか? これは、神の助けを得る方法ではありません。わたしは正直で忠実な人々を支持します。たとえ彼らが弱くても、赦し、助けます。自分の利益だけを優先してわたしの子どもたちに苦痛と苦悩をもたらす嘲笑者や否定者を支持しません。
そして、わたしの子どもたちの中で第一のものであるあなたは254、わたしの引き裂かれた胸の神秘の泉に口をつけて、あなたの心を強くしてください。あなたはわたしの使者であり、使者以上に地上におけるわたしの代理人であり、小羊を代表する者であり、小羊の心と言葉を持っているので、苦しみと運命の中で新しいキリストになるでしょう。
近づきつつある杯には、すでにどれだけの苦痛が込められているのでしょう! すでにたくさん飲んで、正しい生活を送ってきたとしても、何の役にも立ちません! それは、あなたにとってなんの役にも立ちません。なぜなら、飲めば飲むほど、痛みが増すからです。この痛みは、わたしたちの敵である力によって蒸留され、搾り取られるからです。敵はキリストを咬むことができない代わりに、彼の生き物の肉を咬みます。そして、わたしのヨハネのように柔和で公正で福音を重んじるあなた以上に、わたしのものである生き物がいるでしょうか?
最愛の人のように、瞑想にふけるまで熱心に天国を見つめなさい。なぜなら、苦しみの時はますます近づいており、屈することなく受難に耐えるためには、瞑想に浸る必要があるからです。
たとえ闇があなたを押しつぶそうとも、わたしの代わりに『世の光』であり続けなさい。たとえ倒れても、光であるわたしの十字架を高く掲げなさい。たとえ死ぬとしても、天からの声を、あなたを通して届けなさい、わたしの模範的な僕であるあなたが。
あなたは涙を流しました。ファティマの秘密を知ったことも役に立ちませんでした。まるで取り憑かれた者のように、世界への思い煩いがあなたに襲いかかりました。でも、大丈夫です。わたしの母が、あなたと共にいます。そして、わたしも母と共にいます。
わたしたちは、大きな声たちと小さな声たちと共にいます。その声は、わたしの名で語り、悪魔がはびこるこの地にキリストの声が再び響き渡るよう、身を尽くします。大きな声であれ、小さな声であれ、言葉を運ぶ者たちに祝福がありますように。わたしたちはサタンを打ち負かします。そう断言します。そして、勝利の時、わたしの光はあなた方の光になり、あなた方を新たな太陽のように輝かせるでしょう」。
ああ、神父様255、昨日も今日も、なんて素敵な気持ちでしょう。
昨日の朝、至聖なるマリアの愛撫を受けました。言葉のあやではなく、本当に撫でられました。仕事をしながら考えていたときです。もちろん天国のことを。天に昇る日はどんなに素敵でしょうと思っていました。もう孤児ではなく、独りぼっちではなくなり、多少なりとも今より愛されるでしょうと。すると、頭と頬に聖母の愛撫を受けました。そのとき、泣きながら仕事をしていました。身寄りがいなくなってしまった、慰めがほしい、撫でて慰めてほしいと思っていました。友としてのイエズスの力強い、大きな手ではなく、ましてや恋人としての手でもありません。それは、柔らかく、そっと触れる、母の愛撫でした。小さくて軽い母の手。わたしの頭と頬に。紛れもない感触、そしてその思い出はわたしの喜びです。
今日の明け方、半分眠りながら祈っていました。ロザリオを唱えながら、「おお、イエズスの母、わたしは何をしたらよいでしょう?」と叫ぶと、「わたしを愛してください」とお答えになりました。それだけです。そのほかには何もおっしゃいませんでした。でも、そのおっしゃりかた! 恵みあふれる聖母のお言葉を初めて聞きました。今でもわたしは、あの「愛してください」を思い出します。とても優しい言い方で、まるで母親が娘のベッドに身を乗り出して、キスの合間に母親としての切なる願いを娘の髪にささやくかのようでした。
わたしの人生で娘として一度も味わったことのないものを享受するために、聖母が必要でした・・・! わたしが感じていることを一言で表すとすれば、「エクスタシー」です!