手記 Quaderni

1943年11月6日

 十一月六日235

 イエズスが言われます。

「わたしは、あなた方が蛇に囲まれていて、弱いことを知っています。知っていますから、あなた方を裁くときには、これを考慮します。あなた方の弱さと悪魔の働きを考慮しなかったら、わたしは公正でないでしょう。

 あなた方がわたしを厳しくさせるのは、しばしば、弱さや悪魔の罠から抜け出せないからです。あなた方は、『神などどうでもいい』と言って、故意に転びます。そのとき、わたしは、あなた方を『ユダ』と呼びます。あなた方は、わたしの貴重な血とともにわたしを売ります。あなた方は、魂をサタンに渡すことで、わたしを引き渡します。あなた方の魂は、わたしが自分の死によって買い戻したのですから、わたしのものです。あなた方が反キリスト的な行為を行いながら、キリスト者だと自称するなら、わたしへの裏切りです。

 ユダもまた、聖餐を受け、わたしを胸に入れて代償金を取りに行き、その金で汚れた手でわたしを抱きしめ、敵に合図を送りました。ユダはあなた方に嫌悪感を抱かせます。けれども、キリスト教徒としての立場を自分の目的のために利用し、キリストの利益に奉仕しないあなた方と、何が違いますか? あなた方がほとんど奉仕しないので、彼らは誘惑者に従うままになっています。

 転びたくないのに転び、転んだことを悔い改める人たちに対して、わたしはどれほどいつくしみを示すことでしょう? 悪意のない転び方を一度、二度、十度、百度したとしても、愛に致命傷を与えることはありません。それは、共同の擦り傷です。あなた方の涙がそれを癒し、わたしの愛がそれを回復させます。あなた方は、『主よ、あわれんでください』と言い、わたしは、『哀れな息子よ、父のもとへ来なさい』と言います。

 あなた方の中で愛が消えるまで、あなた方はいつもわたしのものです。そして、わたしは傷ついた子どもたちのために、わたしの血をささげました。だから、あなた方もわたしと同じように、自分自身に対して公正で慈悲深くありなさい。あなた方の魂から永遠の喜びの権利を奪うことがないよう、わたしを知り、わたしを愛するよう努めなさい。

 命の道に戻りなさい。わたしの掟がその道です。一日を通して、これらを心に留めていなさい。しかし、もし弱さのせいで小さな間違いを犯してしまったとしても、決して諦めてはいけません。明日は今日よりも、明後日は明日よりも良い結果を出すでしょう。植物の成長はゆっくりです。毎日小さな根が、毎日新しい葉が出てきます。でも、成長すれば何と美しいことでしょう! 完成とはこういうものです。子どもたちよ、それは段階を踏んで達成されるものです。

 すぐに最大の完成に達しなかった人に、わたしが多く報いないと思いますか? いいえ。その逆です。わたしの恵みによって聖なる者になった人たちと、自分の本性に逆らって聖なる者になった人たちを見れば、この愛の英雄を二倍の愛情の目で見つめます。永遠の報いは唯一無二のもの、神を見ることです。しかし、肉体、世界、悪魔との戦いに勝利した戦士の間の最初の抱擁は、特別な恍惚感を持つ強烈なものとなるでしょう。悪魔は、生涯を通じて、千回断ち切られても千回蘇った蛇のような本質で彼らをかき混ぜ続けたことでしょうが、それに勝利した者たちなのですから。

 あなた方に言います。わたしを信じなさい、真理を。今、あなた方にとって、その記憶がどれほど必要なことでしょう! あなた方は、キリスト者であることを思い出さずに死んでいます。キリストに立ち返りなさい。知恵は言います、『この徴(しるし)を仰ぎ見た者は、彼らが見たものによってではなく、万物の救い主であるあなたによって救われた』と。

 見なさい、子どもたちよ、あなた方が個人の病も公的な病も癒されないのは、わたしを見る術を知らないからです。実践は重要ではありません。報復はますます悪を生み出します。復讐は復讐を受ける者よりも復讐する者を殺します236。避難所はあなた方を守ることなく崩壊します。けれども、もし、わたしの所に来るなら、あなた方は救われるでしょう。この世でも、来世でも。

 わたしの願いを繰り返します237。あなた方の救い主イエズスの権力の座である十字架に、多くの崇拝をささげなさい。旗竿の上に掛けられた蛇にヘブライ人たちを癒す力があったように、十字架に挙げられた不死のわたしには、あなた方を怖がらせ苦しめるものを追放する力があります。なぜなら、わたしは生と死の主であり、死が差し迫っているところに命をもたらし、命に呼びかけることで死を征服できるからです。

 わたしのほかに、これができる人はいません。サタンがあなた方にどんな力を与えようとも、生命の動きを取り戻す力を与えることはできません。それどころか、あなた方に生命の与え主を憎んで人生を破滅させるように教えます。生命の与え主は、あなた方を発芽させて実らせるという肉体的な生命を与えるだけでなく、霊的な生命をも与えます。それパンであり、神の子の肉ですから、天使たちも崇拝します。神は、あなた方に愛と信仰以外の何ものをも求めずにそれを与え、まさに聖なる乞食のように、あなた方の中に神を受け入れるように求めます。なぜなら、神はあなた方と一緒にいることを喜びとしているからです。

 そのパンは、あなた方の中で命と恵みに変わり、救い、光、喜び、知恵に変わります。あなた方が神の子と一つになったとき、あなた方はすべてになります。父の言葉は、あなた方の胸の中の心のようにとどまって、優しく語りかけます。そして、わたしの言葉は、超自然的な子としての立場を放棄しない人々を永遠の命のために守ります。

 喜びの時にあなた──愛が言葉となる父の思い──を愛するだけでなく、喜びが訪れる以前に、ハリケーンの雲の下でも、輝きを失わない光であるあなたを祝福する人々は幸いです。目に涙を浮かべてあなたを賛美し、心から信頼し、あなたのいつくしみを確信できる人は幸いです。真に言いますが、暗闇が迫り絶望をもたらしているときに、最も美しい信仰の行為で神に希望を抱くことができる人は、永遠の太陽を知るでしょう。

 真の信者は少ないです。少な過ぎます。地獄から発したこの無力な夜に、病んだ霊魂は、風に吹き飛ばされて水中で腐る木の葉のように落ちます。彼らの重みは彼らを引きずり下ろしますが、肉を太らせるサタンがいて、彼らが救われるのに十分な高さに到達できないよう、彼らの目をくらませ、締め付けています。恐怖と失望が彼らを鈍らせます。悪習が彼らを麻痺させ、失望が彼らを燃え尽きさせます。彼らは愚かな影に震える廃墟です。彼らが震え上がるべきなのは、自らの不死を殺す自分自身なのですが、それを知りません。

教会は無人になり、祭壇には信者がおらず、神秘的なパンは求められず、三元徳は衰退するか死に絶え、基本的な徳も同様です。

 救済を求める苦しみと混乱した努力、そして光の子たちに対する軽蔑に次ぐ軽蔑があり、軽蔑以上に、彼らにとって憎むべきその光を消すための抑圧の願望があります。けれども、人々にもたらしたわたしの光である愛する子らよ、彼らがあなた方を軽蔑し、踏みにじれば踏みにじるほど、この哀れな世界はますます暗闇に陥るでしょう。罪238といくつもの罪が、光に対する壁と障壁を形成するでしょう。そして、その重いシェルターの下で、人類は絶望的な牢獄の中で滅びるでしょう。

 わたしが天から送る徴を拒み、天からの警告を嘲笑しなさい。すべては許されていると信じなさい。あなた方がそれを信じないとき、わたしはあなた方に一つの徴を示します。それを目にして、あなた方は恐怖に陥り、今あなた方が無防備な者たち239に投げつけている怒りが、あなた方自身に返ってくるでしょう。

 わたしは、その徴です。わたしが現れるとき──地上への出現の時はまだ来ていません──それは、怒りの子らと、破壊の父への霊的な出現です。風が止むと、あなた方の武器と彼の武器は塵のように落ちるでしょう。そして、もし地上から呪いではなく祈りが上がっていたなら、わたしの出現はすでに起こっていたでしょう。あなた方を愛してくれる人のもとにどうやって近づいてよいか分からずに震えている惨めなあなた方、あなた方は恐怖から解放されていたでしょう。

 勝つのはわたしです。知っているのはわたしです。そして、あなた方が怯えた羊のようにうろうろ走り回るのを見ることは、非常に残念です。あなた方が従っている助言は、愚かなばかりか、愚かで邪悪な助言です。あなた方の魂の目を開き、神が最初の親を創造したときに作ろうとした神聖で偉大で栄光に満ちた民にするために、わたしはもう一度死にたいほどです。あなた方をもう一度創造して、わたしの思いとこれほど外れていないあなた方を見たいです。でも、現実は現実です。

 これは、全員に向けて話しています。わたしの話を聞く人は少ないでしょう。理解する人は、もっと少ないでしょう。知恵は、もはや愛されず、理解されません。けれども、知恵は、忠実な者たちに常に地上で力と光を、地上を超えたところで救いと喜びを与えるでしょう。彼は自身をささげるでしょう。そして、彼に仕えて功績を上げた者は、ヨハネが言う十四万四千人の中に数えられ、聖なるエルサレムを得るでしょう。そこには、善意の人々に自らをもたらすために自身を犠牲にした知恵の王座があります」。

注

  1. 著者の鉛筆による書き込みは、さらに知恵の書の十五章を参照するように示唆している。

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  2. 著者の鉛筆による脚注には、「これも今夜のヴァチカン爆撃を指しているのだろうか?」とある。

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  3. 十月二十三日の本文参照。

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  4. 著者は脚注に、「これも、『光の子』の町の爆撃への暗示だろうか?」と記している。

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  5. 著者による脚注、「そしてここ?」

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