1943年10月27日
十月二十七日
マタイ 三章十一~十二
イエズスが言われます。
「洗礼には、もう一つの洗礼もあります、わたしが愛する娘よ。カトリック信者であるあなた方は、洗礼を受けていますが、その洗礼は原罪を洗い流し、すべての人に同じ神聖さの結果をもたらすべきです。あなた方が、霊の目と存在の根源をこの世の泥の中に捕らわれたままでいるのではなく、天国を目指す限りは。
洗礼は、わたしが洗礼者ヨハネの洗礼に代わって制定した秘跡であり、その中には、あなた方を聖性へ導くすべての要素が含まれています。それは、あなた方に恵みを与えます。恵みを持つ者はすべてを持ちます。
けれども、恵みを無視し、役に立たない贈り物だと捨てるのはあなた方です。この恵みは、あなた方の中にいる神とそのすべての賜物にほかなりません。この恵みに忠実でいなければならないという厳しい義務と、肉体、金銭、悪との安易な妥協とを比べると、あなた方は妥協を好みます。地上での人生という、永遠の中での数舜の間に、ただ楽しみのため、あるいは楽しみを得るという信念のもとでの妥協です。
あなた方を愛する神の子が、消えることのない印、すなわち、至高なる神の息子、娘、相続人としてあなた方に天国の王位を与える印である王冠よりも栄光に満ちた印を刻まれた群衆の中に入られるとき、本能とサタンと戦い、悔い改めによってサタンと本能の汚れを洗い流して、運命のしるしを清めて有効にした人たちがほとんどいないことに気付きます。父によって裁きを行う権能を与えられている神の子であるわたしは、わたしの心が愛するこの少数の人たちに燃える火の洗礼を授けるために来ました。その洗礼は、彼らの中ですべての人間性を燃やし、焼き尽くし、魂を解放し、語る聖霊を受け入れる能力を与えます。
その喜びの中の厳しい選択と痛みを伴う選別。清くない者、愛と悔い改めによって清く保たれていない者、清くされていない者は、わたしの小麦として受け入れられません。中身のない不毛のもみ殻、有害な毒麦やネナシカズラ、役に立たない寄生蔓は、わたしの厳密な検査によって選別されます。
もみ殻とは、高慢な者たち、すなわち、合理化と誤った科学に対して心と精神を高慢にしている現代のファリサイ人や律法学者たちのことです。毒麦とネナシカズラとは、律法に反抗し、心を毒する者、堕落者、中傷者であり、母の胎内から死んで出された方がよかったような者たちです。蔓植物とは、聖徒たちの交わりから恩恵を受けたいと望みながら、それに貢献するためにほんの僅かな努力さえもしない、弱く生ぬるい者たちのことです。彼らは霊的に怠惰な人であり、常に励まし、支援、暖かさを必要としながら、貧しい霊的生活を送ります。さまざまな援助の要素がなければ、天国に手を伸ばすことができず、地面を這い回り、悪魔に踏みにじられるでしょう──捕えられるではなく、踏みにじられると、わたしは言います。彼らは、悪魔からも軽蔑されています。悪魔は、彼らが自らの魂を殺していることを知っているので、彼らを気にしません。
苦痛を伴う選択です。なぜなら、神の小麦粉となる運命にある麦の穂のように、脱穀機の打撃、石臼の犠牲、ふるいの浄化、つまり、苦痛、悲しみ、苦行、限りない苦行を受け入れなければならないからです。
ああ! ホスチアの小麦になるためには、愛によって自分自身の不純物をすべて取り除くことができなければなりません。あなた方の人格を浄化し、天国での生活にふさわしいものにする上で、愛ほど絶対的なものはほかにありません。
けれども、わたしの魂よ、考えてください。たくさんの苦しみの後で、わたしの楽園が、あなたにとってどれほど美しく見えるか、考えてください。あなたがここで王への愛のために飲んだ苦汁はすべて、上では甘味に変わるでしょう。ここであなたに苦しみをもたらしたすべての傷は、そこでは永遠の宝石になるでしょう。すべての苦しみは喜びとなるでしょう。
時は流れます。一瞬一瞬が過ぎていきます。わたしは残り、わたしの永遠も、わたしと共にあります。そして、わたしとそれは、あなたへの贈り物になるでしょう。あなたが愛と苦しみで得た贈り物です。永遠の光と永遠の喜び。神と、神と共にいる永遠です、マリア。
いつも、このことを考えなさい。あなたは痛みを、呼吸する空気のように切望するでしょう」。
その後、夜の始めごろ。
イエズスが言われます。
「『いとしい人よ、開けてください。あなたの夫が入れてくださいと頼んでいます。口づけを切望していたあなたの口に、わたしは口づけする権利を与え、愛の腕に何度も抱かれていたあなたの腕に、わたしは愛を抱く権利を与えました』。
これが今朝の雅歌です。あなたは、あなたにユリ210を与えた者が、あなたが望むものをすべて与えることができると分かるでしょう? わたしはわたし自身を与えました。汚れなきユリであるマリアから生まれたユリです。わたしは今、肉体と魂、血と神性において、あなたと共にいます。祭壇の上にいるかのように、わたしはあなたと共にいます。
ここ、あなたの部屋で、あなたの信仰はランプよりも輝き、あなたの愛は香よりも香りを放ちます。ベツレヘムの洞窟と同じように、わたしはわたしの揺りかごを置きました。わたしの小さな揺りかごには、天のように大きなわたしが入っています。最も小さな断片の中でも、わたしは父の胸の中にいるのと同じであり、わたしの周りには崇拝する天使たちがいます。あなたの信仰がこれを信じさせ、この信仰のおかげで、あなたは祝福されます。
あなたに秘密を教えましょう。あなたが子どものころから愛していた聖人、マリア・マグダレナは、フランスの孤独な悔悟者が岩場で悔悟していたとき、愛の渦に巻き込まれた魂を、聖体の中にいるわたしのところへ送ることができました。わたしが地上で生きていたときのように、秘跡の中でわたしを崇拝したいという彼女の願いは、彼女の苦行よりもわたしを感動させました。
わたしはキリスト教徒から、あまりにも崇拝されていません。口うるさい彼らは、わたしを崇拝するのに、道具以上のものを必要とします。ああ! でも、わたしを愛の力だけで愛してください! わたしを見て、信仰の力でわたしを信じてください! 知ってください、牢獄や砂漠に進んで投獄または追放された隠遁者たちほど、熱烈な崇拝をした人たちはいません。また、聖なる亜麻布を血で紫色にした小さなタルシウスの祭壇ほど、ふさわしい祭壇はかつてありません。
もっと完璧なものを見つけるには、わたしの揺りかごに身をかがめた母の言い表せないほどの感動や、ユリよりも白く愛に輝く脈打つ祭壇について考えなければなりません。わたしを抱く彼女の貞淑な体、神の幼子の眠りのための枕となった彼女の腕や胸について考えなければなりません。
マリア、マリアになりなさい。わたしたちの母のように、天から降った、生きたパンの崇拝者、神とマリアの肉と血を崇拝する人になりなさい。彼女に、聖体に対する熱意を教えてもらいなさい。
マリア、あなたの家をナザレとベタニアにしなさい。わたしがここにいるのですから、すでにそうなっていますが。聖体拝領のイエズスへの完全な愛によって、もっと完全にしなさい。愛する心に、病気は妨げになりません。孤独なわたしがいる教会が無数にあります。あなたの霊でそこに入ってください。ほかの人たちの愛の不足を、あなたが補ってください。
わたしに倣って言いなさい、『わたしは、切に望んでいました。イエズス、たくさんの祭壇の中で独りぼっちのあなたの所へ来ることを切に望んでいました。全身全霊であなたを愛しているとお伝えするために。ああ、わたしの聖体の太陽、パンであるあなたを摂取することを、切に望みました。主よ、このゆえに、あなたの僕を憐れんでください。神の小羊よ、永遠にあなたを崇拝するために、あなたの天上の祭壇に近づかせてください。わたしの神聖な太陽よ、わたしの弱い生活環境によって、今のわたしにはベールに包まれて見えますが、わたしの魂が、あなたの栄光に魅了されながら、あなたを見ることができますように。わたしがあなたを愛するのと同じように、祝福された永遠の間、あなたを愛させてください。イエズス、わたしに命の門を開けてください。わたしの命であるイエズスよ。主イエズス、来てください。光の交わりの中で、肉が滅び、霊があなたを勝ち取ることができますように。わたしの唯一の三位一体の神、わたしの魂の唯一の愛であるあなたを』と」。
注
-
これは、著者が「神によってまかれたに違いないと」指摘したユリのことと思われる。誰も球根を植えていないのに、古いフラワーボックスから生えてきたからである。五月十日のテキスト参照のこと。