手記 Quaderni

1943年9月17日

 九月十七日

 イエズスが言われます。

「知恵の書十六章一~十節で言われていることについて、あなたの先生になって以来、何度も説明しました166、あなたの兄弟姉妹による説明よりも、もっと広い意味があります。では、引き続き、これらの語句について考察しましょう。真の知恵は、あの書があなたのために開かれるずっと前から、あなたに説明してきました。

 さまざまな機会に、わたしから直接聞いたときと全く同じ感覚や語句を発見したとしても、驚いてはいけません。わたしは父の言葉です。そして、言葉は一つです。したがって、今も教父たちや預言者たちの時代と同じです。だから、あなたが太古の言葉を読んで、わたしから聞いたばかりの言葉と同じだと感じるのは自然です。あなたに話しているのはわたし、はるか昔の人たちに話したのもわたしです。あなた方の時代や思想が大きく変わったとしても、そして、あなた、小さなヨハネが、謹厳な教父たちや熱烈な預言者たちと大きく異なっているとしても、わたしの言葉と教えはいつも同じで、変わりません。

 神は変わりません。神は変化に適応します。あなた方の、いわゆる進化にも、神の業の設定の中で適応しますが、その核心は変わりません。教えの本質は、消滅する命の問題ではなく、死ぬことのない霊魂です。それは、いつまでも残ります。もし、地球が千年も万年も続き、人間が物質的に──ここに注目しなさい──進化して、宇宙や重力や速度の法則を無視できるようになったなら、分離を解消する発明によって、ほとんどどこにでもいられるようになるかもしれません。人間はそれをめざしていて、テレビジョン、電送写真、その他の発明に科学的名称をつけますが、それらによって、遠くで作用することもできるようになり、無線操縦を用いた遠隔爆発や殺人光線など、サタンの徴をつけた創作物が、悪魔的な復讐を地上に解き放つかもしれません。

 あなた方に言うわけにはいきません。あなた方がほかの惑星を攻撃することができ、わたしの太陽のように強力な光を創造し、どんな遠くの波も耳や目でとらえることができるようになったとしても、愛、自制、誠実、公正、謙遜の法を廃止することが正当だと言うわけにはいきません。決して、絶対に言うことはできません。いつも、どんな時でも言います、『知性を公共の福祉に役立つ発見のために用いる人は幸いです。あなた方の知性を悪との不正な取引に売り渡して、邪悪と破壊の業を生むならば、呪われるでしょう』と。

 これぐらいで、よいでしょう167。その代わり、あなたの慰めになり、指針となることを話しましょう。

 シラ書三十三章十一~十五節で言われているように、人間には異なる運命があります。

 あなた方の運命を決めるのはだれですか? 間違えないよう、この点をはっきりさせなければなりません。誤りは、冒涜的志向の原因となりやすく、霊魂の死すらあり得ます。人は時々、『神が運命を決めるのだから、神は不公平で意地悪だ。神がその人を不幸にするからそうなるのだから』と、言います。

 いいえ、娘よ。神は意地悪や不公平などではありません。あなた方は短絡的で、よく見えず、しかも目の前のものしか見えません。それならば、どうして、主の書に書かれているような、あなた方の運命の理由を知り得るでしょう? 天に書かれている物事の真実を、宇宙に漂う小さな塵のような地球からどうして理解することができるでしょう? あなた方に起きることを、どうして正しく呼ぶことができるでしょう?

 母が薬を与えようとするのに、薬を飲みたくない子どもは泣いて悪態をつき、薬を押しのけようとします。しかし、母親はいやがらせではなく善意でしているのですし、権威をもって従わせても、自分が醜くなるどころか、美しくなることを知っています。また、薬はその子の役に立ちますから、愛撫しながら厳しい口調で薬を飲ませます。幼い我が子の病気を治すためなら、母はなんでもするでしょう!

 あなた方も天のよい父の子らです。父はあなた方の病を見て、放置することを望みません。あなた方の優しい父は、あなた方に健康と力を取り戻させようとします。そして、あなた方の霊魂を強くする薬を与えます。霊魂を矯正し、治し、健やかで美しくするために。

 もし、あなた方を泣かせずに済むとしたら、子らの涙で心がいっぱいの彼は、そうするだろうと思いますか? でも、それぞれの人に時があります。彼は、あなた方に永遠の救いをもたらすために、あらゆることをしています。自身を天国から追放までして。自身の血をあなた方に与えるために、最後の一滴まで絞り出しました。それは、すべての傷を治し、すべての病に勝ち、すべての弱さを克服させます。

 今は、あなた方の時です。なぜなら、あなた方を命に導くために天から言葉が降り、あなた方を贖う血を流したのに、あなた方は罪から離れることができず、常に罪へと後退するからです。あなた方を愛する永遠なる者は、あなた方に痛みの罰を与えます。その痛みの大きさは、あなた方をどの高さまで引き上げたいかによって異なります。また、脱走兵の子らとしてのあなた方の負い目を、この地上でどこまで償わせたいかによって。

 確かに、あの世で二倍輝く痛みを感じる人たちもいます。また、汚れたストラを浄化して光に達するために、痛みを感じなければならない人もいます。大多数がそうです。けれども──矛盾していますが、本当のところ──彼らは痛みに反抗し、神が痛みを与えるのだから、神は意地悪で不公平だと言います。彼らは、最も病んでいる人たちですが、自分では最も健康だと思っています。

 人は、光の中にいればいるほど、痛みを受け入れ、愛し、欲します。

 人は一回以上、光の中にいると、受け入れます。

 人は二回以上、光の中にいると、愛します。

 人は三回以上、光の中にいて、そこに浸され、それによって生きると、痛みを欲し、求めます。

 それに対して、人は闇に入れば入るほど、痛みから逃げ、憎み、反抗します。

 人は逃げます。大きな罪も善もなし得ない弱い霊魂は、生ぬるさの霧と小罪で包まれ、霊的に貧弱な生活を送ります。そして、あらゆる性質の苦痛に対して、どうしようもない恐怖を抱きます。彼らは力のない、意気地なしの霊魂です。

 人は憎みます。ふしだらな人にとって、苦しみはあらゆる悪行の妨げとなりますから、この霊的生活の偉大な師を憎みます。

 人は反抗します。完全にサタンのものになった極悪の罪人は、さらに霊的な罪を重ねます。反逆が頂点に達すると、苦痛に対して復讐するため(少なくともそう信じて)、冒涜、自殺、殺人などの罪を犯します。神が父として彼らになす業は、悪を発酵させます。それというのも、これらの重罪人は酵母を混ぜられた小麦のように悪と混ぜられるからです。そして、悪は、苦痛によって捏ねられた酵母のように、彼らの中で膨れ上がり、彼らを地獄のパンにします。

 あなたは、この三つのどこに入りますか? 今、どこに属していますか? どこにとどまりたいですか? 答えは不要です。分かっています。だからこそ、わたしは、あなたに話し、あなたと一緒にいるのです。

 または、こんなことを言う人がいるかもしれません、『もし、運命が決まっているのなら、怒ったりもがいたりしても無駄だ。なるようになればよい──どうせ、決まっているのだから』と。

 これも致命的な誤りです。運命は神に知られています。では、あなた方は知っていますか? あなた方は、決して知りません。

 例を上げましょう。ペトロはわたしを拒みました。彼がこの過ちを犯すことは、運命でした。けれども、彼は、わたしを拒んだことを後悔しました。そして、神は彼を赦し、教皇にしました。もし、彼が過ちのうちに居続けたなら、わたしの代理者になることができたでしょうか?

 『運命だった』と言ってはいけません。神があなた方の運命を知っていることを忘れてはいけませんが、運命を作るのはあなた方です。神は、あなた方の行動の自由を奪いません。神は、あなた方に手段と助言を与えます。あなた方を正しい道に戻すために警告しますが、あなた方がその道から外れたがるならば、神はとどまるように強制しません。

 あなた方は自由です。神は、あなた方を成人として創造しました。あなた方が父の家にとどまるなら、神は喜びます。けれども、あなた方が『出て行きたい』と言うなら、引き留めません。あなた方を憂い、行く末を案じます。そして、それ以上すれば、あなた方に与えた自由を奪うことになりますから、しません。あなた方が飢饉の苦痛の中で、父の家にだけ慰めがあることを悟り、父のもとへ戻るとき、神は喜びます。犠牲と祈り──特にこの二つ──によって、また、言葉によって、息子や娘をわたしの所へ戻そうと努力する人たちを、神は喜び、感謝します。けれども、そこまでです。

 でも、知りなさい、わたしの手の中の人間は、陶工の手のうちにある粘土のように、わたしの心に愛されます。わたしの手は彼らを優しく愛撫します。わたしの愛撫は、彼らを形づくり、わたしの似姿となる徴を刻みます。つまり、柔和、謙遜、慈しみ、純潔ですが、最も素晴らしい似姿とは、贖い主であることです。

 彼らは贖い主としてのわたしの使命を継続する霊魂たちですから、わたしは常に『ありがとう』と言います。それは、最大の保護を与える祝福です。わたしの姿を写したヴェロニカのベールが神聖と言うならば、わたしの真の姿である霊魂たちを、何と言えばよいでしょう?

 勇気を出しなさい、マリア! わたしの平和があなたとともにあります。わたしは、あなたといます。恐れてはいけません」。

注

  1. 七月二十四日、七月二十八日、八月二十五日など。

    ↩

  2. 前にも、七月二十一日の口述などで。

    ↩