1943年9月14日
九月十四日
イエズスが言われます。
「今日は『十字架称賛の祝日』です。『犠牲の祝日』と呼ぶべきかもしれません。なぜなら、十字架上で、贖い主としてのわたしの犠牲が頂点に達したからです。そして、『犠牲の』を、『血の』と言い換えることができるかもしれません。わたしは十字架上で、血を最後の一滴まで流したからです。実際は、もう血ではなく、血清でした。瀕死の体からの最後の発汗。
マリア、なんとたくさんの血でしょう! すべてのものを、すべての人を聖化するために、いたるところで流しました。わたしの犠牲と色々な場所での出血には、わけがありますが、あなた方は調べようとしません。でも、十字架称賛の祝日ですから、説明してあげましょう。
ゲッセマネの園とオリーブ畑で流した血は、田園地帯と農作業を聖化するためでした。父によって創造された田園地帯は、収穫を生むためのもので、葡萄や果樹や小さな植物など、どれも人間に有用でしたが、父は、その利用や栽培を地上の最初の人間たちに、超自然的に教えました。わたしは血を流して、地と地上の労働者を聖化しました。そこには、人間の助けや食用になることを父から認められた、さまざまな動物を飼育する人も含まれています。
わたしは、神殿で血を流しました。すでに、石や棍棒で傷ついていましたから、エルサレムの神殿を聖化するために流しました。その未来の神殿の結合は、その時に始まりました。わたしの教会とすべての教会、神の家、その司祭たち。
わたしは最高法院でも血を流しました。最高法院は、教会だけでなく科学を象徴していたからです。人間の科学がどんなに神聖化を必要としているか、わたしだけが知っています。人間の科学は、あなた方の知性による発見で神を見ますから、真理を否定することに利用され、ますます不信をつのらせます。
わたしはヘロデの神殿で血を流しました、地上のすべての王たちのために。彼らの民と彼らの国の道徳を守るために、極度の人力を注いで流しました。王宮でもそうです。王はただ一人であると思い出すことが、どれほど大切か、知っているのはわたしだけです。王たちの王であり、彼の掟は地上の王たちを超える最高の法です。彼らが王でいられるのは、わたしが王冠を取り上げるまでのことです。そうしなければならないのは、自罪または弱さが明らかになった時です──重大な過失ではなくても、非情に多くの破滅を引き起こすため、同様に非難され、断罪されるべきです──もはや王冠に値しないのですから。
そして、わたしは総督府でも血を流しました、そこには、権力者が住んでいました。権力者──力──とは何か、彼らがなぜ、そこにいるのか、どれだけの期間いるのかについては、すでにあなたに話しました163。彼らが永遠の裁き手から呪われないためにするべきことは、わたしの愛と正義の法と、最も尊いわたしの血への服従しかありません。それは、心から罪を消し去り、精神を強め、神聖に行動することを可能にします。たとえ、国家の試練、あるいは他国への罰として、神から許された出来事によって、統治権がその国のものではなくなり、勝利した国、あるいは抑圧した国のものになることを意味する場合であったとしても。この場合特に、権威者はそれが両者の聖化を目的として、神から許されてそうなったことを忘れてはなりません。従って、大切なのは、自分を罰することになるような力の使い方をしないこと、不正な力の乱用によって、被抑圧者や被支配者を罰さないことです。わたしは血を与えました。ピラトの家に雨のように降らせました。それは、地上のこの階級を救うためです。世界が始まって以来、この階級は正当でないものを正当に変えることができると信じてきましたから、本当に救出しなければなりませんでした。
わたしは、むち打つ兵士たちに、ますます多くの血をふりかけ、紫色に染めました。それは、戦争という痛ましい出来事の中で、兵士たちに人間らしさを植え付けるためでした。戦争という呪われた病気は、あなた方はが憎悪の毒を自分から根絶して愛を予防接種する方法を知らないために、常に再発します。兵士は戦わなければなりません──それは法的義務です──兵士による戦いや殺害は、服従によって正当化されますから罰せられないでしょう。けれども、もしも彼が戦いにおいて獰猛性を発揮し、不必要な権力を行使するなら、わたしから罰を受けるでしょう。不必要で正義に反するものとして、わたしが常に呪うものであれば、当然です。正義は常に必要です。たとえ、人間的勝利が陶酔させ、人種的憎悪が正義に反する感情を呼び起こしすとしても。
わたしの血は、都の道を濡らし、足跡を刻みました。もう見えなくなったとしても、残っています。そして、永遠に残るでしょう、最も高い天国の住民の心に。わたしは道を聖化しようとしました、たくさんの人が通り、たくさんの悪がなされる道を。
あなたは思うかもしれません、わたしの血は、あちらこちらに振り撒かれましたが、教会のすべての聖職者を聖化したわけでもなく、王宮、権威者、兵士たち、人民、科学、都市、街路、さらには田舎すらも聖化していないと。あなたに言います、わたしはそれでも血を流しました。多くの人に救いになるどころか、わたしが血を流した目的に反し、糾弾の根拠になることが分かっていたのですが。それでも、わたしは、教会、科学、権力、軍隊、人民、都市、田舎の少数者のために、流しました。彼らは、それを集め、愛の声を理解し、その命令の声に従うことができました。彼らが永遠に祝福されますように!
けれども、最後の血が流されたのは、神の水や人間の手で洗って分散できる場所の土や石、顔や衣服の上ではありませんでした。最後の血は、胸郭と心臓の間に集まり、それはすでに冷たくなっていましたが、最後のあざけりのために流されました──神の子である人間の中に、命の液体が一滴も残らないように。こうして、わたしは本当に、のどを切られた子羊になりました、神に受け取っていただける犠牲として──わたしの血の最後の滴は失われませんでした。あの十字架の下には、一人の母がいました!母は、最後に、十字架の木を抱きしめることができました。殺される子に手を伸ばし、貫かれ、最後の激痛で縮められた足に接吻し、汚れないベールに御子の血の最後の滴を集めました。それは、わたしのわき腹から漏れ、ぐったりした体を流れ落ちていました
わたしの母の苦しみ! 彼女は、わたしの誕生から死まで、このためにも、苦しまなければなりませんでした。どんな惨めな人間の子でも、誕生と臨終の際に得ることができる最初と最後の慰めを、わが子に与えることができなかったのです。彼女は、生まれたばかりのわが子の産着とすべての血を失った子の埋葬布を、自分のベールで作らなければなりませんでした。
その血は失われていません。それは、おとめのベールに生き残り、輝いています。おとめの白さに神聖な紫──それは、審判の日の裁き手であるキリストの旗になるでしょう」。
注
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六月三日、七月二十八日、七月二十九日、七月三十日の口述など。