手記 Quaderni

1943年9月13日

 九月十三日

(聖体拝領の瞬間に始まったこと)

イエズスが言われます。

「あなた方が告白の祈り──習慣的で、心が虚ろなままの祈り──で呼び出す大天使ミカエルは、わたしが十字架上で死ぬ時もそこにいました。わたしの犠牲の時、常に神の王座の前にいる七大天使たちは、全員いました。

 これは、『天が閉ざされた』というわたしの言葉と矛盾しません。もう一度言います162、父はいませんでした。世の救いのために大いなる犠牲が成し遂げられていたとき、遠くに離れていました。

 もし、父がわたしと一緒にいたら、犠牲は完成しなかったでしょう。それはただ、死を宣告された肉体の犠牲だったでしょう。けれども、わたしは完全な奉献を成し遂げなければなりませんでした。人間の三つの面──肉体、精神、霊──のどれも、犠牲から排除されることはできませんでした。なぜなら、わたしは官能の罪のためだけでなく、すべての罪のためにささげられたからです。それならば、わたしの精神面も、霊的な面も打ち砕かれ、とてつもない犠牲の重荷によって全滅させられなければならなかったことが理解できます。もしも、わたしの霊が父の霊に融合していたなら、苦しまなかったことでしょう。

 けれども、わたしは一人でした。高く──物質的にではなく、超自然的に──上げられ、地上からは、もう何の慰めも届きませんでした。あらゆる人間的慰めから切り離されました。さらし台に載せられて、過去から数千年の未来にわたる全人類の罪の計り知れない重みを負わされました。その重みは、十字架よりもわたしを押しつぶしました。蒸し暑いエルサレムの石だらけの急坂を、怒り狂う群衆にからかわれながら追い立てられる苦しみで、すでに体は疲れ果てていましたが、その体で引きずっていた十字架よりも重くのしかかりました。

 十字架の上でも、わたしは苦しみ続けました。肉体の拷問で受けるあらゆる苦しみと、どんな神的援助によっても耐えようがない罪の山に打ちひしがれて、精神的にも超絶的な苦しみを受けていました。嵐の海で難破したわたしは、そのまま死ななければなりませんでした。わたしの心は、この重みと打ち捨てられた苦しみで、張り裂けました。

 わたしの母は、わたしのそばにいました。実際にいました。わたしたち二人は殉教者として、この重みと遺棄に耐えていました。視線を交わせば、さらに苦しみが増しました。わたしが身震いするたびに、母は身を引き裂かれました。そして、母が呻くたびに、わたしの傷ついた肉体に新たな傷が加わり、新たな釘が打ち込まれました、手ではなく、心に。わたしたちは、一緒になってすぐに、さらに苦しむために別れさせられました。そして、わたしたちの上では、天が父の怒りによって閉じられ、とても遠くにありました・・・

 けれども、大天使たちはいました、神の子が人間の救済のために犠牲にされ、おとめである母が苦しめられていたときに。黙示録には、最後の時に、み使いが神の王座に最も神聖な香をささげると書かれています。地上に神の怒りの火が投げつけられる前に。それならば、こう考えていいはずです、聖なる人々の祈り、それは至上なる者にふさわしい永続的な香ですが、まず、涙ほど、どんな言葉よりも祈りに満ちているものはありません、特に祝福された聖なる者、わたしの最も甘美な殉教者、わたしの母の涙ならば。それらは、お告げを運んで同意を得たみ使いが集めたものです。それは、超自然的な婚姻を証言したものです。その婚姻によって、神の本性は人間の本性と結ばれました。人間と神との平和のために、肉体を高みに引き付け、その霊を下げて肉としました。

 ガブリエルと天の仲間たちは、イエズスとマリアの苦しみに腰をかがめましたが、それを軽減することは抑えました。それは正義の時だったからです。けれども、いなかったわけではありません。彼らの知性の光の中で、その時の詳細をすべて集めていました。時が存在しなくなったときに復活した者たちが見るものを説明するためです。祝福される者に喜びを味見させ、堕落した者に最高の裁判官にして至高の王であるわたしから与えられるものを予見させるために」。

 イエズスが話し始められたのは、わたしが回心の祈りを唱えていたときでした。わたしの脳裏にガブリエルが浮かびました。

金色の光が、十字架にひざまずいて礼拝しているようでした。でも、十字架は見えませんでした。

 そして今日、タイプ書きの原稿をチェックしました。思い違いがあるといけないので。すると、五月三十一日のエルサレムの破滅についてのコメントを見つけました・・・確かあの日、ルカの二十一章二十節から二十四節を読んで、その印象を得たのだと思います。あの日、わたしは、「これはわたしたち全員に言及されたものではないだろう。よく分からない。けれども、とても胸苦しくなった」と書いています。今日、ルカを読み直しました。すると、残念ながら、わたしたちの不幸な現況には、これらによく当てはまっています・・・

 イエズスは今日、いつも神の王座の前にいる七人の大天使について話しておられます。実際、そうなのでしょうか、それとも、寓話的な数でしょうか? 聖書を見ましたが、何も分かりませんでした。これは、イエズスが六月十一日に話しておられた「隙間」の一つなのでしょう。

注

  1. 九月五日の口述参照。

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