手記 Quaderni

1943年9月10日

 九月十日

 イエズスが言われます。

「娘よ、コヘレトの最後の部分を一緒に読みましょう。彼が賢い人だとしたら、わたしは神の知恵です。だから、常に彼に勝ります。けれども、彼のように、わたしは民を導きます。わたしは、二千年の間、民を導いてきました。わたしは、言葉によって導き始め、愛する僕たちの言葉を通して、導き続けています。

 けれども、わたしの民によって導かれた人の中に、気に入りの弟子たちがいます。彼らのために、先生は先生以上の者になります。友です。そして、王の豊かさで、彼らのために門を開きます。親密さと啓示への門です。わたしは、愛する者たちの手を取り、秘儀の深奥へと導き入れます。彼らが第二のヨハネのために確保されている息を与えられて、わたしの言葉を受けることができるようになるために。

 わたしの小さなヨハネよ、わたしの言葉をあなたに預けます。それを先生たちに伝えなさい。それを人間たちのために役立ててもらいなさい。それは、一人の牧者から来ます、よい牧者から。彼は自身の血によって、真理の言葉を書きました。

 世界の指導者や地上の天才は、指令または作戦を伝えたいとき、忠実な部下の一人に聖なる旗または大切な秘密を託します。そのとき、その忠実な人は、伝えられたことに対して、どんなに敬意を払うことでしょう! わたしは、指導者や天才をはるかに超える者です。わたしは神、父の言葉であり、知恵です。あなた方の主、贖い主です。わたしの言葉は、この世の善を与えるのに役立つだけでなく、死ぬことのない善、永遠の命を与えます。つまり、わたしの言葉ほど貴重で聖なるものはありません。

 ひざまずいて心に受けなさい。そして、あなたの愛を香料にして、それを受ける心を清めなさい。書く手を清め、唱える口を清め、読む目を清めなさい。天使として、司祭として、生きなさい。なぜなら、あなたに天使が聞くことを聞かせ、司祭が唱えることを唱えさせるからです。そして、もっと犠牲者として生きなさい。なぜなら、霊の耳を開くのは犠牲、主について語る舌を洗うのは血だからです。

 十字架の祝日が近づき、十字架につけられた霊魂が特に必要です。どうか、わたしのために苦しんでください。あなたのイエズスを信じなさい! あなた方のためにもう一度十字架に戻ることができるなら、どんなによいでしょう! けれども、それはできません152。地上の人間が兄弟を憎んで敵の血をおびただしく流す中で、わたしの血は足りず、もうあなた方のために十字架上で流すことはできません。

 わたしは、地上の祭壇で、パンと葡萄酒の形態をキリストの体と血に変化させますが、真に祈る霊魂に囲まれる祭壇はあまりに少ないです。あなた方、わたしの小さな犠牲者たち、いとしい犠牲者、わたしの庭の花たちよ、贖い主の身代わりとなり、世の罪を贖う犠牲(いけにえ)として、あなた方の体をわたしにささげてください。

 わたしの娘よ、もう何も求めてはなりません。わたしも、コヘレトと共に言います。あなたのイエズスの代わりに、小さなキリストになる以上に、どんな使命を望みますか? わたしの言葉以上に、何を望むというのですか?

 神は単純です。神に近づけば近づくほど、あなたも単純になります。人間が書いた神に向けた科学でさえ、人間の科学の退屈さと虚栄心をますます感じるようになるでしょう。神があなたに語れば語るほど、あなたは人間の言葉の耳障りな雑音に悩まされるでしょう。それは、わたしの超自然の言葉の優しさとは比較になりません。多くの学説にうんざりしてはなりません。たくさんのルールに束縛されてはなりません。単純に、自由でいなさい。あなたの軛(くびき)は負いやすいでしょう。それは重荷ではなく、翼です。わたしの軛です。

 間違いなくわたしの所へ来るためにするべきことは、一つだけです。コヘレトの助言ですが、わたしは、それを次のように修正します。『神を愛し、その掟を守りなさい』。『畏れ』ではなく、『愛』と言います。愛は、畏れよりもはるかに高尚で、目的に近いです。畏れは、神から遠い人を道に迷わせないためのものです。それは、目隠しのように、人間の中に閉じ込められた獣性が幻想的な誘惑に負けるのを防ぎます。けれども、すでに神の近くにいる人たち、とりわけ、神の腕の中にいる人たちは、愛に導かれなければなりません。

 神は、あなた方の行いのすべてを裁きにかけるでしょう。けれども、愛によって動かされた行いが完全に邪悪で、主を不快にさせるということはあり得ません。そこには、あなた方人間の限界が現れているでしょうが、輝かしい愛の旗で覆われて、罪を打ち消し、人間の行動を主に喜ばれるものとするでしょう。

 ほら、娘よ。世界は人々の心から溢れ出す殺人的な騒音と憎悪に満ちていますが、愛し合うわたしたち二人は、沈黙と平安のうちに愛を語りましょう。わたしの小さなベタニアの人々ほど、あなたのイエズスを喜ばせるものはありません。そこで、先生であるわたしは休息し、一人のマリアに愛をもって教えます。彼女は、愛をこめて彼を見つめ、聞き入ります。

 昨日、あなたは、わたしが言ったことを書けませんでしたね? かまいません。心配することはありません。昨日語った言葉の種は、あなたの中にちゃんとあります。わたしが芽吹かせようと思うときに芽吹かせましょう。きっと、もっと美しいものになるでしょう。

 常に気立てよく、辛抱しなさい。あなたにわたしの平安を与えます」。

注

  1. 正義のために。四月二十三日参照。

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