手記 Quaderni

1943年8月5日

 八月五日

 イエズスが言われます。

「この民への怒りは、わたしの怒りを警告する徴(しるし)ですから、必ず起きます。苦難の時です。かわいそうなわたしの子らは、それを経験しなければなりませんが、地上にわたしの時が来る前に善と悪のすべてが成就されるためには、避けられません。その時、わたしは、『もう十分だ』と言って、裁判官である王として来て、地上の王国を支配し、人間の罪と功徳を裁くでしょう。

 ヨハネの黙示録で『死者が裁かれる時』という語を読むと、数世紀も前に死んだ人か、招待されて初めて知らされる奥義の別面を指しているのかと思うでしょう。そうです。死とは、霊魂が地上から他の次元に移行することです。けれども、ヨハネの言葉の中には、もっと広い意味があります。彼が言う死者とは、肉体によって生きていても、真に見る人の目で見れば死者の中にいる人です。

 彼らは、完全に死んでいます、彼らには復活がないからです。彼らは神に対して死に、永遠に命、神を持つ幸福を失います、神こそ、永遠の命だからです。

 同様に、単に預言者、僕、聖人という言葉にも、ヨハネは広い意味を込めています。これらの三つの肩書に、ヨハネは霊において生きることに成功したすべての人間を含めています。

 なんと大勢の、謙虚な老女や、貧しい子らや、無学で素朴な人や、大衆に知られない無教養な女性たちが、『預言者、僕、聖人』という語に隠され、包まれていることでしょう。彼らを世間に示すなら、世間は笑うでしょう。けれども、まことに、まことに言いますが、肉の目で見れば哀れなこれらの人々は、高慢な学者や、見栄っ張りの人や、わたしの聖職者よりも、預言者、僕、聖なる人であると言えます。わたしの目から見れば、わたしの言葉によって生き、常に信仰と希望と愛でわたしの意志に従うことのできる人こそ聖なる人であり、それが欠ける人は聖なる人とは言えません。

 わたしが王である裁判官として来るときに、祝福された者たちにかけるほほ笑みは、太陽を七倍燃やすでしょう、そして、わたしの天はそれによって輝くでしょう。その時、天使の合唱団は、わたしと僕たちの賛歌を歌うでしょう。その時、愚かで暗い世に認められずに、わたしから徳をたたえられた僕たちは、わたしの子らになるでしょう。

 けれども、そのようでない人たち、特に、世界や、世界の弱者たちを破滅に導いた人たちにとって、わたしの視線は地獄へ落とす落雷のようでしょう。というのも、悪の存在は避けられず、悪の僕や共犯者になる人たちは、永遠に呪われるからです」。

 (これは、イエズスが黙示録十一章十七から十八について説明なさったこと。)