私に啓示された福音 Gospel

第170章

第二の山上の説教。恩寵の賜物と真福八端。

 ・・・成聖の恩寵、すなわち霊魂の命。わたしたちの霊的霊魂に置かれたあの極めて霊的なもの。恩寵は罪という死からあなたたちを守るゆえ、あなたたちを神の子らとするが、死んだ者は、父の家、すなわち天国で、わたしの王国すなわち天で『生きて』いません。聖化し、生命と王国を与えるこの恩寵とは何でしょうか? おお! 多くを語ってはなりません! 恩寵は愛です。したがって恩寵は神です。完璧に創造された被造物のうちに自分自身を見て感嘆し、自らを愛し、自らを凝視し、自らを熱望し、この財産を増し加えるために、この増加を楽しむために、他者であるにもかかわらず、自分自身を愛するために、彼のものであるものを与えるのは神です。
 おお! 子らよ! 神のこの権利を詐取(さしゅ)してはならない! その財産を神から奪ってはならない! この神の熱望を裏切ってはならない! 彼は愛のために働くことを考えなさい。たとえあなたたちがいなくても彼は常に無限なものであろうし、その力が減ることはないでしょう。しかし彼は、その無限の尺度において計り知れず完璧であるから、自分のために、また自分のうちには望まず──すでに無限なるものであるがゆえにそれは出来ない──ただ、その被造物人間を含む宇宙のために愛を増し加えたいと望みます。そのために、あなたたちに恩寵すなわち愛を与えます。それは、あなたたちが、あなたたちのうちに聖人たちの完全さをもってそれを抱(いだ)き、神がその恩寵と共にあなたたちに与えたこの財宝から引き出されたあなたたちのすべての聖なる活動、あなたたちのすべての英雄的生活によって増大したこの財宝を、神が在(ましま)す無限の大洋、すなわち天に再び注ぎ込むためです。
 愛の完璧な、完璧な、完璧な水槽! あなたたちは存在し、あなたたちの存在には死は与えられていない、というのもあなたたちは神であることにより*神のように永遠だからです。あなたたちは存在するだろうし、あなたたちの存在に終わりは与えられないだろう、というのも、自らの功徳で豊かになってあなたたちのもとに戻って来ることにより、あなたたちを十二分に養った聖なる霊たちのように不滅な者だからです。あなたたちは生き、養われ、あなたたちは生き、豊かになり、あなたたちは生き、こよなく完全な霊である神から、今、初めて母の乳を飲む生まれたばかりの赤子に至る諸霊の通功であるあの至聖なるものを練り上げなさい。
 おお、学の有(あ)る者たちよ、あなたたちの心の中でわたしを批判してはなりません!『この人は狂人だ、この人は嘘吐きだ! なぜならあの罪のせいで我々がもっていないはずの恩寵を我々はもっている、と言って狂人みたいなことを語るからだ。なぜならもう我々は神と一体だと言って我々を騙(だま)しているからだ』と、言ってはなりません。はい、罪はあります。はい、断絶はあります。しかし、贖罪主の力の前で、父とその子らとの残酷な断絶である罪は、新しいサムソンによって震動を加えられた城壁のように崩壊するでしょう。すでにわたしはそれを掴(つか)み、それを揺さぶったので、それはよろめき、サタンはわたしの力の前ではなすすべもなく、また、多くの獲物(えもの)をせしめようとしていたのに人間を罪に引きずり込むことがより難しくなったと、怒りと無力感で震えています。なぜならわたしが、わたしを通してあなたたちを有し、わたしの父のもとに連れて行くであろう時、そして、わたしの血が、またわたしの苦しみが浸透してあなたたちを潔白、かつ強靭にすることにより、あなたたちの内に恩寵は生き、目覚め、力あるものとして戻り、あなたたちがそれを望むなら、あなたたちは勝利者になるであろうからです。
 神は、思考において、聖化においてさえ、あなたたちに暴力をふるいません。あたなたちは自由です。しかしあなたたちに力を与えます。サタンの王国に対してあなたたちに自由を与えます。あなたたちは再び自分に恐ろしい地獄の軛(くびき)をかけるか、それとも霊魂に天使的翼を持つか自由です。兄弟なるわたしと共に、あなたたちを導き、またあなたたちを養うための不滅の食物は全部あなたたちにあります。
170・5 『 シナイ山の厳しい道ではないもっと楽な別の道をとって神とその王国を得るにはどうすればいいのですか?』と、あなたたちは言う。
 他に道はないのです。あの道です。しかしながら脅(おど)しの色合いを通してではなく、愛の色合いを通してそれを見ようではありませんか。罪を犯さないことなど出来はしないと、罪を犯すのを震えながら待ちつつ『もしこれをしないなら災いだ!』と言わないようにしましょう。むしろ、『もしこれをするならわたしは幸いだ!』と言って、超自然的な喜びに彈(はず)んで、刺(とげ)だらけの潅木(かんぼく)の茂みから姿を現わす薔薇の花冠のように、律法の遵守(じゅんしゅ)によって生まれるこの真福八端に向かって身を躍(おど)らせようではありませんか。
『心貧しければわたしは幸いだ、天の王国はわたしのものであろうから!
 柔和であればわたしは幸いだ、わたしは地を継ぐであろうから!
 反乱を起こさず泣くことが出来るわたしは幸いだ、わたしは慰められるであろうから!
 肉を飽かせるパンと葡萄酒よりも義に飢え渇くならわたしは幸いである。義はわたしを飽かすだろう!
 慈悲に富むならわたしは幸いだ、神の憐れみはわたしに注がれるだろうから!
 心が清ければわたしは幸いだ、神はわたしの清い心の上に屈(かが)み、わたしは彼を見るだろうから!
 平和の霊をもつならわたしは幸いだ、神から我が子と呼ばれるだろうし、平和のうちには愛があり、また神は彼に似る者を愛する愛なのだから!
 義に対する忠実のために迫害を忍ぶならわたしは幸いだ、わたしが地上で受ける迫害に報いて、神、わたしの父はわたしに天の王国を賜るであろうから!
 おお神よ、あなたの子であることを知るために、侮辱され、嘘吐きのごとく非難されるならわたしは幸いだ、これによって悲嘆ではなく、喜びはわたしに来るはずだし、これこそ、同じ理由で迫害されたあなたの最良のしもべ、預言者たちにわたしを肖(あや)からせ、この人たちと共にわたしは、わたしのものである天において同じ報いを分け合うことを固く信じているのだから!』
 救いの道をこのように考えましょう。聖人たちの喜びを介して。
170・6『心貧しければわたしは幸いだ』。
 おお! 富に対する悪魔的渇きよ、どれほどの妄想をお前はもたらすことか! 富者の中に、貧者の中に。その黄金、すなわち崩壊したその霊の最悪の偶像のために生きている富者。富者には金があるからというだけで富者を憎んで生きる貧者は、有形の殺人を実行しなくても、あらゆる種類の災禍(さいか)を富者たちのために願望し、その頭上に呪いを叩きつけます。悪事はそれを実行さえしなければ悪事でないのではなく、実行したいと願望しないことが必要なのです。ある人にその人の災難と死を願望し悪態をつく者は、実際に人を殺す者と大差(たいさ)はない、というのも、彼のうちには憎んでいる者が死ぬのを見たいという願望があるからです。まことにあなたたちに言いますが、この願望はまだ放出されてはいないけれども、すでに胎内で形成されている胎児のように、抑(おさ)えられている一行為以外の何ものでもないのです。悪意のある願望は暴力行為より長く、行為そのものがより深くに残るから、毒し、破壊します。
 心貧しい者は、富者であっても金(かね)のために罪を犯さず、それを愛にして、彼の黄金を彼の聖化にします。彼は救い、また絶望から立ち上がらせるために、自らを与えることを喜びとし、けちけちせずに自分を与えるあの砂漠の中の泉に似て、愛され、祝福されます。もし貧しければ、その貧しさの中で喜び、黄金に対する飢渇から自由である者の快哉(かいさい)の美味なパンを食し、また悪夢に魘(うな)されることもなく、ぐっすり眠り、清新な気分で目覚め、貪欲(どんよく)も嫉妬心も無く、果たす仕事は常に楽(らく)にさえ思われるのです。
 人を富者にするのは、物質として黄金があり、精神的なものとして愛情があります。黄金には金銭のみならず、家、田畑、宝石類、家具、家畜、その他生活を物質的に裕福にする一切が含まれます。愛情においてはすなわち、血縁、婚姻の絆、友情、知的富、公的キャリアがあります。見ての通り、第一の部類に関する限り貧者は、『おお! それがわたしにとって何だ! 持っている人に対してわたしが焼き餅を焼かなければいいのだし、それで問題は落着します。好むと好まざるとにかかわらずわたしは文無しなんだから』と、言うことができますが、第二の部類に関しては、人びとの中でも指折りの文無しであっても、邪(よこし)まに霊の富者になれるのだから自戒しなければならないのです。節度を破って或何かに愛着すれば、罪を犯します。
 あなたたちは言うでしょう、『ということは、神がわたしたちに授けてくださった良いものを憎まなければならないのですか? では、なぜは、父と母を、妻を、子らを愛せよと命じ、〈あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ〉と、命じられるのですか?』と。
 あなたたちは見分けなさい。わたしたちは父と母、妻と隣人を愛さなければならないが、『わたしたち自身のように』、と神が言われる尺度において愛するのです。ところが一方、神は、万事に超えて、わたしたち自身のすべてを超えて愛されるべき方なのです。この女はその乳でわたしを養ってくれたから、またあの女はわたしたちの胸で眠り、わたしたちに子らを産んでくれるから、という具合いに、わたしたちが隣人の中で最も愛すべき者たちを愛するように神を愛さないことです。そうではなく、わたしたち自身全体で、すなわち人間の中にある愛する能力のすべてをもって、すなわち子としての愛、夫としての愛、友としての愛、そして、おお! 良識を欠く、と言って憤慨しないでほしい! 父としての愛を傾けて神を愛するのです。そうです、わたしたちは、子のために栄養に富む食物を手に入れ、愛を込めて育て、その身体的、知的成長のために心を配り、その出世を願う一人の父親がその子にすると同じ世話と心遣いを、神の利益のためになすべきです。
 愛は悪ではなく、またそうなってはなりません。神がわたしたちに授けてくださる数々の恵みは悪ではなく、そうなってはなりません。それは愛です。それは愛のために与えられています。愛情と幸せにおいて神がわたしたちに授けてくださるこの富を、愛を込めて用いることが必要です。またこれらを偶像にせず、聖徳のうちに神に仕える手段とする者のみが、それらに罪深い愛着がないことを示しています。その時、聖なる神、至高の富を獲得するためにより自由になろうとしてすべてをかなぐり捨てる心の聖なる貧しさを実践します。神を獲得することは、すなわち天の王国を所有することです。
170・7『柔和であればわたしは幸いだ』。
 そのことは、日々の生活の例からすると矛盾しているかに見えます。柔和でない人たちは家庭でも町でも国のレベルでも、まるで勝ち誇っているかのようです。しかしそれは、本当の勝利でしょうか? いいや、違う。一見したところ、専制君主の言いなりになってひれ伏している恐怖だが、実際は独裁者に対する反乱の沸騰(ふっとう)の上にかけられたベールに他なりません。家族の心も同市民の心も臣民の心も掴(つか)んでいない、怒りっぽくて横暴な族(やから)です。『わたしは言った、そしてわたしは言った』のあの教師たちは、知的能力と霊を彼らの教えに従わせていません。ただ、彼らが、存在すると感じ、強要されている一つの知恵か一つの知識の開(あ)かずの門を開くために合う鍵の探求者たちや独学者たちをつくっているだけです。
 忍耐強い、謙遜な、愛深い優しさをもってではなく、激烈で強硬な態度で進軍し、非妥協的な残忍な猛攻を加える武装ゲリラさながらに霊魂を獲得しに行く祭司たちは、神に霊魂をもたらしません。おお! かわいそうな霊魂たち! 祭司たちよ、もし霊魂たちが聖なるものであれば、光に到達するために、あなたたちを必要とはすまい。その光を自分のうちにすでに抱いているだろう。義人たちであれば、正義の規定内に抑えておくためにあなたたち判事の必要などないだろう。すでにそのうちに正義を保持しているだろう。健康であるならば、彼らを看護する者など必要としないでしょう。それでは皆さん、柔和な人でありなさい。霊魂たちを逃がしてはなりません。愛で彼らを自分に引き寄せなさい。なぜなら柔和は、心の貧しさがそうであるように、愛だからです。
 もしあなたたちがそうなるなら地を受け継ぎ、すでにサタンに先立ってこの場所を神にもたらすでしょう、というのも、愛であるのみならず謙遜であるあなたたちの柔和は、霊魂たちの中の傲慢と憎悪の卑屈な王を殺して勝利し、また世はあなたたちのもの、つまり神のものとなるでしょう。なぜならあなたたちは、讃美と祝福が捧げられ、彼のものであるすべてが帰せられるべき御方、宇宙の絶対的主人としての神を認める義人となるでしょうから。
170・8『反乱を起こさず泣くことが出来るわたしは幸いだ』。
 地球上には悲しみがあります。また悲しみは人に涙を流させます。悲しみはありませんでした。しかし人間はそれを地球に持ち込み、その知性の堕落は、それを増大するためにあらゆる方法を用いてますます研究を重ねたのです。病気に加えて落雷、嵐、雪崩、地震に由来する災害、これに人間は苦しみ、また何よりも苦しませるために──なぜならわたしたちは自分たちではなく、他人のみが苦しむのを願い、苦しみを与えるためにその方法を考えようとするから──ますます巧妙な精神的冷酷さでますます恐るべき殺人兵器を考え出します。サタンというその王の密(ひそ)かな扇動によって、人間が、どれほどの涙を人間に流させていることか! にもかかわらず、まことにわたしはあなたたちに言います、これらの涙は障害とはならず、それどころが人間を完成します、と。
 人間は不注意な子供であり、軽率でぼんやりしていて、落涙が彼を大人にし、内省的にし、聡明にしない限り、生まれつきの知恵遅れです。泣く者だけが、また泣いたことのある者だけが、愛することを知り、理解することが出来ます。泣く兄弟たちを一様に愛し、彼らの悲しみを理解し、悲嘆に暮れて一人でいることが、どんなによくないことかに精通したその善良さで、彼らを助けるのです。彼らは神を愛することを知っています、というのも、神以外の一切が悲しみであると理解し、神の胸に顔を埋(う)めて泣けば、悲しみは晴れることを理解し、信仰を粉々にせず、祈りを枯渇させず、反乱には一指も触れさせず、本性を変え、悲しみから慰めとなる甘受(かんじゅ)された涙を理解したからです。
 そうです。主を愛しつつ泣く者たちは慰められるでしょう。
170・9『義に飢え渇くならわたしは幸いだ』。
 生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで人間は食物を貪(むさぼ)る傾向があります。生まれると乳首に吸いつこうと口を開き、死に際(ぎわ)には安らぎを飲み干そうと唇を開きます。食べるために働きます。地球を巨大な乳首(ちくび)にして、そこから吸うわ吸うわ、飽くことも知らず死ぬもののために吸います。人間とは一体何なのだろうか? 動物? いいや、違う。神の子なのです。僅かか、あるいは多くの歳月を流刑の地で過ごします。しかしその命はその住みかが変わっても終りません。
 胡桃(くるみ)の内部に核心があるように、命の中に一つの命があります。胡桃の殼(から)は胡桃ではなく内部の核心が胡桃なのです。胡桃の殼を地に蒔いても何も出て来ません。でも果肉と共に殼を蒔けば、いつか大木になります。人間もそのようなものです。不滅となるのは肉ではなく霊魂です。霊魂は不滅となるために、愛によって十二分に養われるべきで、霊魂はその後、肉を至福の復活へと導くでしょう。霊魂の養分は知恵であり、正義です。飲み物と食べ物のようにこの二つは渇望され、また活力を与え、またそれを味わえば味わうほど、知恵を所有し正義を認識したいという聖なる欲望はますます増していきます。
 しかしいつか、この聖なる飢えに飽くことを知らぬ霊魂にも、これに飽く日が来るでしょう。来るでしょう。神は天国に生まれたこの子に、もし彼が直接にその乳に吸い着くなら、自分を与え、天国に生まれたこの子は神御自身である感嘆すべき母によって満腹し、最早二度と飢えを知らないでしょうし、神の懐(ふところ)で至福の安らぎを覚えるでしょう。どんな人間の学問もこの神の学問に匹敵することは出来ません。知的好奇心は満たされても、霊の必要は満たされません。むしろ、味覚の相違にうんざりし、苦い乳首に口元を歪(ゆが)め、神に由来しない食べ物で空腹を満たすよりも飢えに苦しむ方を選びます。
 おお、神に渇いている人びとよ、おお、神に飢えている人びとよ、恐れなくともよい! 忠実であるならば、あなたたちを愛する者からあなたたちは飽かされるでしょう。
170・10 『慈悲に富むならわたしは幸いだ』。
 人であれば誰が『わたしは慈しまれたり憐れんでもらう必要はない』と、言いうるでしょうか? 誰もいません。古い律法でさえも『目には目を歯には歯を』と言われている*とすれば、なぜ新しい律法で『憐れみ深い人は憐れみを受けるであろう』と言ってはならないのですか? 万人は赦しを必要としています。
 それで、赦しを得させるのは儀式の決まり文句や形や人間の愚かな考え方によって容認される表面的な形象でもないのです。それは、愛の、つまり憐れみの内的儀式なのです。たとえ科(か)された一頭の雄山羊(おやぎ)、あるいは一頭の羊、また幾らかの通貨の寄進による生贄が捧げられたとしても、この内的儀式はなされねばならなかったのです。というのも、あらゆる悪の根底にはまだ常に二つの根、すなわち貪欲と傲慢があるからです。貪欲は捧げ物の購入のための出費で罰され、傲慢は『わたしは罪を犯したのでこの生贄を執り行います』という、あの儀式の誰の目にも明らかな告白をもって罰されます。多くの時代と時代のしるしに先んじるためにも行われ、また流される血には人びとの罪を帳消しにするために流されるであろう血の象徴があります。
 したがって、飢えている人たち、裸も同然の人たち、家の無い人たち、悪い性格を持ち自分と同居する者を苦しめるというまだずっと大きな悲惨の中にいる不幸な人たちに慈悲深い人たちは幸せです。憐れみ、慈悲深くありなさい。赦し、同情し、助け、導き、支えなさい。『わたしは潔白だ、罪人たちの中に下りて行くものか』と言って、水晶の塔の中に閉じ篭ってはなりません。『わたしは金持ちだし幸せだ、他人の悲惨の話など聞きたくもない』と、言ってはなりません。強風に散らされる煙よりも早くあなたたちの富、あなたたちの健康、あなたたちの家族の幸福も消え失せることがありうると思いなさい。また、水晶体はレンズになることを思い出しなさい、それはあなたたちを群衆に紛れこませ、人目につかぬようにやり過ごさせ、一つの水晶の塔の中に押し込め、単一にし、分離し、四方八方から照明を当て、あなたたちは最早それを隠しておくことは出来なくなります。
 一つの秘密の、持続する、聖なる贖罪の生贄を全(まっと)うするための、また、憐れみを受けるための憐れみ。
170・11 『心が清ければわたしは幸いだ』。
 神は清浄(しょうじょう)です。天国は清浄の王国です。不浄な者は、神の在(いま)す天に入ることは出来ない。したがって、不浄であるならあなたたちは神の王国には入れません。しかし、おお! 喜び! 父が子らに繰り上げて授ける喜び! 清い御方は、地球から天の一つの原則を所持しておられる、というのも神は清い者の上に身を屈め、人は地球からその神を見るからです。人間的な様々な愛の味は知らないが、神的愛の味は無我の境地に至るほど味わい、そして『わたしはあなたと共におり、あなたはわたしの内におられ、それによってわたしはあなたを所有し、わたしの霊魂のいとも愛すべき花婿だとわかっています』と、言えるのです。そして、神を有する者は、自分自身にも説明不可能な、それによって聖者、知者、強者となる本質的な変化を遂げ、またその唇には言葉が開花し、またその行動は被造物のそれではない、だが被造物の内に生きる神の力を帯びることを信じなさい。
 神を見る人の人生とは何ですか? 至福です。またあなたたちは悪臭を放つ不浄のために、そのような贈物を捨てたいのですか?
170・12 『平和の霊をもつならわたしは幸いだ』。
 平和は神の特徴の一つです。神は平和のうちにしか存在しません。なぜなら平和は愛であり、それに反して戦争は憎悪だからです。サタンは憎悪です。神は平和です。もしある人が激しやすい霊魂をもち、常に嵐を呼ぶために身構えているなら、我こそは神の子だと言うことは出来ないし、神もその人を我が子と言うことは出来ません。それだけではありません。戦争を勃発(ぼっぱつ)させた当人でなくても、他人がおっぱじめた戦争を停止させるためにその大いなる平和をもって貢献しない者もまた、自分を神の子と言うことは出来ないのです。
 和を重んじ好む人は、言葉を用いなくても平和を伝播します。自制する人、またあえて言えば、神の所有者*なら、彼はその明りを入れたランプのように、その香りを発散する香炉(こうろ)のように、その油を運ぶ革袋のように、神の子らから漂う平和の霊であるこの快い甘美な油によって、恨みの霧が立ちこめる所に火を点(とも)し、嫉(そね)みの毒気を清め、争いの荒れ狂う波(はとう)を鎮(しず)めます。
 神と人びとがこのようにあなたたちを呼ぶことが出来るようになりなさい。
170・13 『義に対する忠実のために迫害を忍ぶならわたしは幸いだ』。
 人間はどこにいても善を憎み、善人を憎み、黙ってはいるがほとんど善良であるがゆえに憎み、非難し、叱責するほど、怒り狂わされます。実際その通り、一人の善良さは、悪人の悪業をさらに悪意に満ちたものに見せます。実際その通り、真の信仰者の信仰は、偽信仰者の偽善をより鮮明に見せます。実際その通り、その生き方により絶え間なく正義を証言している者は、不正な族(やから)に憎まれずにはいられません。そしてその時、正義を愛する者たちに対する残忍な行動が始まります。
 ここでも戦争と同様です。人間は、愛の聖なる業(わざ)においては進歩しないのに、迫害する悪魔的業においては進歩します。しかし短命なものしか迫害出来ません。人間の内にある永遠なものは罠を逃れ、いやむしろ迫害によって更に力強く活気に満ちた生命力を獲得します。生命は血管を開き、あるいは迫害される者を摩り減らす傷口から逃れます。しかし血は未来の王の緋(ひ)の衣となり、様々な困難は、父が天の王国の上席に彼らのために取っておかれた殉教者たちの座席に登るための多くの階段になるのです。
170・14『侮辱され、誹謗されるならわたしは幸いだ』。
 あなたたちは、あなたたちの名が天の書物に記(しる)されるようなことだけをしなさい。そこには称賛するに値しない者を称賛する人間の嘘に基づく名は記されていません。しかしそこには、神から祝福された者たちに約束された報酬が与えられるために、愛と正義をもって善人たちの行なった業が記されています。
 今までに預言者たちは侮辱され、誹謗(ひぼう)されました。しかし天の門が開かれる時、威風堂々の王たちとして彼らは神の国に入り、天使たちは喜び歌いつつ彼らに膝を屈めるでしょう。あなたたちもまた、神のものとなるために侮辱され誹謗されたあなたたちもまた、凱旋し、時が終わり天国は完成するでしょう。その時こそ流した涙という涙はいとおしいものとなるでしょう。なぜならそれによって、父の名においてわたしがあなたたちに約束するこの永遠の喜びを獲得したのですから。
 行きなさい。明日もまたあなたたちに語ります。今は病人だけが残りなさい。援助の手が差し延べられるために。平和はあなたたちと共に。また救いの黙想は愛を通して、天がその終点である道へとあなたたちを向かわせるように」。