私に啓示された福音 Gospel

第169章

第一の山上の説教=使徒たちと弟子たちの使命。

イエズスは穏やかな身振りで、ゆっくりと話す。あいいろの服から浮かび上がるその顔は、ちょうどのいる所に降り注ぐ新月の光の下で、より青ざめて見える。天にかかる月の一つの小さな句読点、の、そして地球主人を愛撫する光のやいば

「他の人たちを別にして、あなたたちをここに集めたのは、あなたたちがわたしの友人だからです。十二使徒によって果たされた最初の試みの後、活動するわたしの弟子たちの輪を広げるために、また、わたしの継承者としてあなたたちにわたしが授ける人びとから指導されることの最初の反応を、あなたたちから聞くために、わたしはあなたたちを呼んだのです。万事うまくいったとわたしは知っています。わたしは祈りをもって、知性も心も新しい力を得てねんとうから出て来た使徒たちの霊魂を支えました。この力は人間の学問研究には由来せず、への全面的な委託に由来します。

より多く与えた者たちは、より多く自分を忘れた者たちです

自分自身を忘れることは骨の折れることです。人とは記憶の積み重ねであり、一番声高なのは自我そのものの記憶です。この自我とこの自我とを区別しなければなりません。を記憶し、自分はから来たという自らの起源を記憶する霊魂によって与えられる霊的自我があり、自分自身と、情念をもっぱら包含する無数の要求を記憶する肉の劣等な自我があります。またこの数々の情念は──一つの合唱になるほど多くの声であるから──またもし霊魂がよほど強靱でないと、の子というその卓越性を記憶する霊魂の孤高の声を制圧してしまいます。それゆえ──一層刺激を与え、生き生きと力強く保持していなければならないこの聖なる記憶によらなければ──弟子として完全であるために、ありとある記憶、要求、人間的自我しょうしんよくよくたる思慮において、自分自身を忘れることが出来なければならないのです。

この最初の試みにおいて、わたしの十二人の使徒の中で一番成果を上げたのは、自分を一番忘れていた者たちです。彼らの過去を忘れていただけでなく、彼らの限界のある人格までも忘れていました。彼らは、自分がどうであったかをもはや思い出さず、何も恐れないほどと融け合う者たちです。他の何者でもありません。

誰かはなぜよそよそしく、打ち解けないのですか? なぜなら彼らの習わしとなった疑念、彼らの習わしとなった考察、彼らの習わしとなった偏見を思い出すからです。他の人たちのあの寡黙さはなぜですか? なぜなら彼らの教えの無力さを思い出し、恥をかくのを、あるいはわたしに恥をかかせるのを恐れるからです。更に、他の者たちのあの自己顯示欲はなぜですか? なぜならこの者たちは、彼らの習わしとなった、傲慢、目立ちたい、世の喝采を浴びたい、頭角を現したい、『ひとかどの人物』でありたいという願望を思い出すからです。最後に、ある者たちが確実で、説得力をもち、勝ち誇る律法学者のような雄弁で、他人に即座に自分を明らかにするのはなぜでしょうか? なぜなら、この者たち、そしてこの者たちだけが──その時までは謙遜で、人目を避けて生きることを願い、適時とみるや途端に自分に授けられた首位の威厳を発揮することを知り、決してうぬぼれることのない者たち──を思い出すことを知っているからです。最初の三つの部類は、劣る自我を思い出している。別の、四番目のそれは最高の自我であり、恐れなかった。を自分と共に、自分のうちに神を感じているので恐れることがなかった。おお! と共に在ることから来る聖なる大胆さよ!

今、あなたたち、使徒、弟子たち、あなたたちよ、聞きなさい。あなたたち使徒はこの概念をすでに前にも聞きました。今はそれらをもっと深く理解するでしょう。あなたたち弟子は、まだこの概念は聞いたことがないか、断片的にしか聞いていません。それらを心に刻む必要があなたたちにもあります。キリストの群はますます増加するだろうから、わたしはますますあなたたちを使うでしょう。なぜなら、世は、その中心、牧者であるわたしに対して、またわたしの群に対して逆らう狼を増加させて、ますますあなたたちに襲いかかるだろうから、わたし教義とわたしの群を防衛する武器をあなたたちに持たせたい。群は充分でも小さな羊飼たちのあなたたちは充分ではありません。血を苦くするか、それとも欲望を錯乱させる草をんで誤りを犯すことが羊たちに許されるとしても、あなたたちが同じ間違いを犯して多くの群に破滅をもたらすことは許されません。なぜなら、偶像的羊飼がいる所では、羊たちは毒によって、または狼の襲来によって滅びると考えなさい。

あなたたちはの塩であり、世の光です。しかしもしあなたたちの使命が欠如するなら、味気の無い、役に立たない塩になるでしょう。あなたたちはそれを贈り物として頂戴しながら、それを人間性という気の抜けた汚れた水で塩抜きし、官能の腐敗した甘味料でそれを甘ったるくし、の生粋の塩にちりあくたを、傲慢、貪欲、暴飲暴食、色欲、憤怒、怠惰、嫉妬という塵芥を塩の一粒が、それぞれ七つの悪徳を七倍にするように混ぜ合わせたのだから、はそれを再びあなたたちに与えることは出来ないし、最早何ものもあなたたちに再び味をつけることは出来ないでしょう。その時、あなたたちの塩は方向を失った惨めな塩粒の石、歯の下で耳障りな音を立て、口中に土の味を残し、料理をまずくし、口から吐き出される石以外の何ものでもなくなります。食用外での使用にも適さないとすれば、人間的任務に対しても、七つの悪徳の中に振りかけられた一つの知識はどんな害を及ぼすでしょう。その時、その塩は地上に振りまかれ、民の無頓着な足で踏みつけられるしかありません。どれだけの、どれだけの民はこのようにしての人びとを踏みつけることでしょう! なぜならこの選ばれた人たちは、選ばれた者の、天的な者の味を持つからこそ受け入れられるのに、最早その実質が無い単なる屑となり、無頓着に踏みつけられることを民に許したのだから。

あなたたちは世の光です。あなたたちは、ちょうどこの太陽を失う最後の時、そして月が銀色に光る最初の時であるこの最良の時のようです。高い所に置かれた者は輝き、うかつな目にも時には高所に止まるから見られます。言うなれば霊魂の鏡と言われる物質的な目は、霊魂の息吹、しばしば気づかれないが、人間がダイモンでない限り常に生きている息吹、本能的理性が至高者を配置する天の息吹を映しています。そして、人は人生に少くとも幾度かはを探し求めて、あの高みに目を上げます。

幼い時からわたしたち皆がエルサレムに入りながらしていることを、どうか思い出してほしい。視線はどこに向けられますか? 神殿の大理石と黄金の凱旋によって戴冠されるモリア山に向けられます。また、神殿の囲い地にいる時は? 陽光に輝く貴重なえんがいを見つめます。その聖なる囲い地に散在する中央大広間、その柱廊、その中庭の何と美しいことか! しかし目は天空へと走ります。もう一度、歩いている時を思い出してほしい。その長い道程、単調さ、疲労、暑熱、泥をほとんど忘れるために、わたしたちの目はどこへ向かいますか? たとえ小さくても、遠くにあっても山の頂上へと向かいます。またもし平たくて変化に乏しい地上にいれば、山の頂上が現れるときどんなに安堵することだろう! ここは泥だって? あそこには清澄さがあります。ここはむしむしして暑いって? あそこには涼しい大気があります。ここは目に制限があるって? あそこは広々としています。そして、ただあの山頂を見るだけで、日中の暑さを忘れるかに思われ、泥がねちねちしなくなり、歩くことを嘆かなくなります。そして、次いでもし山の頂に一つの町が輝いているなら、そうだ、その時その町を感嘆しない目があるでしょうか。ほとんど空中に横たわる山頂のあまり美しくない場所であってもそういうかもしれません。また、真の、あるいは偽りの宗教が、可能とみるや高所に神殿を建て、丘や山が無ければ、神殿を築く土台や礎石を積み上げるために肉体労働も辞さず神殿を築くのもそのためです。なぜそうするのですか? なぜなら神殿は、その視線をもってへの思いを呼び起こさせるものであることが必要だからです。

同様に、あなたたちは光である、とわたしは言いました。夜に明りを点ける者は、その明りを家のどこに置きますか? かまどの下の穴の中に置きますか? 物を貯蔵する洞穴に? それとも木の長椅子の中に? それともただそれを枡(ます)の下で圧し潰しますか? いいえ。そんなことをすれば明りを点けるのは無駄です。明りは棚の上に高く置くか、あるいは天井から吊(つ)るした燭台置きに灯します。高い所に置くのは部屋全体を明るくし、そこにいる皆を照らすためです。しかも高くに置かれるのは、まさにを思い出させ、光となることであり、その役割の高さにいなければならないからです。

あなたたちはまことを思い出させなければなりません。だからあなたたちの内部にななの異教を奉じてはなりません。さもないと、この、あるいはあの神に捧げられた森と共に涜神の高所になり、あなたたちをの神殿のごとくに見ている者たちを、あなたたちの多神教に引きずり込むことになるでしょう。あなたたちはの光をもたらさねばならないのです。汚れた灯心や油をよく吸っていない灯心は、煙るばかりで明りの用を果たさず、悪臭を放ち、照らしません。埃だらけの石英ガラスの奥に隠れたランプは、燦然とした心地好さを醸し出さないし、艷々とした鉱石上の眩しい光の戯れを見せてくれません。そして、ダイヤモンドを含む遮蔽物を不透明にする黒煙のベールの奥に光を沈滞させます。

の光は、仕事そのものがその接触や反応、また期待外れによってつくり出すを、毎日丹念に払い落とす的確で迅速な意志のあるそこに輝きます。の光は、祈りと愛徳の油が充分に浸透した灯心のあるそこに輝きます。の光は、もしのしもべがくすぶるあらゆる情念の黒煙から、その霊魂の難攻不落の石英グラスを明るく保存するなら、の完全さのそれぞれが聖人のうちに英雄的に実践された一つの徳を生起させ、無限の輝きへと増大します。難攻不落の石英。難攻不落の!(イエズスはこの説教の結論を雷鳴のようにとどろかせ、その声は自然が造った円形闘技場に鳴り響く)。

のみが、あの石英に線を引く権利と力を持ち、その意志のダイヤモンドで、その至聖なるをそこに記すことが出来ます。その時、そのはこよなく純粋な石英の上に超自然的美の生き生きとした切子面をしるす飾りとなります。しかしもし、の愚かなしもべが自分と、すべて、ひとえに超自然なその使命の視点のコントロールを失うなら、サタンの火のかぎづめで造られる怪しげで悪魔的な暗号の、版画ではなく引っかき傷の偽りの飾りを彫らせます。その時、感嘆すべきランプはもはや美しく常に全体を照らして輝かず、火炎で端の欠けた水晶のちりあくたの下に窒息させられ、壊れ、ひびが入らなくても、煤煙が蓄えられ、徐々に入り込み、台無しにして、曖昧さを許さない自然のしるしのもつれを招きます。

愛徳を失い、日々、上昇するために彼らの上昇を待つ群を高みに連れて行くために、上昇することを拒む羊飼たちは災い、三倍も災いです。わたしは彼らをその地位から追放し、彼らの煙を全部消してしまって、げんこをかませるでしょう。

しばしば反逆し、常に傲慢な、時として悪魔的な学問を詰め込むために、知恵を放棄する教師たちは災い、三倍も災いです。なぜなら──あなたたちは聞き、そして考えなさい──もし人間一人ひとりは、人間をの子とする成聖をもっての似姿となる定めをもつのなら、教師と司祭は、地球上にある時からすでにの子というその様相だけを、これだけをもつべきだからです。全霊の、完全な人には、この容貌がなければなりません。その弟子たちにを熱望させるために、それがなければならないのです。人間の知識の偶像となる、超自然的教義の教師たちに呪いあれ。

彼らの無味をもって、悪しく生きている彼らの肉のなまぬるさをもって、三位一体以外のありとある神々のげんわく的出現で溢れている彼らの眠気をもって、人びとの心との富を増大させる超人間的熱望以外のありとある打算をもって、彼らの死んだ水の中に、彼らを『命』と信じ込んで彼らについて行く者たちを引きずり込みながら、人間的にさもしく、愚鈍に生きているが、霊魂の死んでいるわたしの祭司たちは災い、七倍も災いです。

わたしの小さな、愛すべき群を堕落させる者の上にの怒りは落ちます。あなたたちのものぐさによって、あるいはのしもべたちの不履行によって滅びる者たちにではなく、どんな時でもどんな時代でも、またあらゆる状況にしたがって、またあらゆる結果にしたがって、わたしはあなたたちに釈明を求めるだろうし、罰するだろう。

これらの言葉を覚えておきなさい。そして、今は行ってもよろしい。わたしは山の頂に登ります。あなたたちは眠りたければそうしなさい。明日、この羊飼い真理の牧草地に群を導きます」。